ネタがないから、また言及させてもらうにょ、或いは「表」の宣伝

貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根である。
 どうでもいいのだけれど、このお方、おいらのテクストをぜってー読んでいて、ぱくってるにょ。区別という観察の形式を用いた批判作法は、批判として用いたのは、おいらが知る限りでは、おいらが最初であるから。もうそう決めつけて、えばっちゃうのだから。でもアイデアルーマンというか、ルーマンもジョージ・スペンサー=ブラウンから影響を受けたのであるが。

 おいらがニート論で、あの三馬鹿を批判するために用いた区別の観察の形式。<ニート擁護/ニート批判>、も同一の区別のそれぞれ一方を指し示しているにすぎず、機能的には等価であるということ。メディアでのニートに関する言及はほぼ全てこの区別に基づき、そこから発言している。そんなお馬鹿のコミュニケーションの連鎖を延々と続けるのではなくて、新しい区別を投入して発言せよ、ということを書いたのだけれど、この↑上の方の論理も全く一緒。別に、ぱくるのはいいのだけれど、それでも書いていることがいけてないところが、いけてない。

 このお方、何かいいたいことは判るのだけれど、皆さん読まれて何か納得がいかない、一人よがりな感想をお持ちになるのではないでしょうか?それは「〜である。」「〜である。」「〜である。」の連続で、宣言してしまっていることを担保する論証がないからなのですね。これまで「表」で駄文の批判にならない批判に、無理やり答えるというか、駄文すぎる批判であることで、その批判に返答することができないということを何度か文章分解することでお答えしてきましたが、この方も例にもれず正統派な駄文を書く方であり、皆さん文章分解することでゆっくり読んでみてください。論理的ではなく、詩的な文章だということがお判りになるはずであるから。

 それから、いけてない処は余程、その分野に精通していなければ「知識社会学的には〜」とか「システム理論的には〜」とのたまうのは、その筋の専門家からこっぴどく、それは恐ろしい批判をあびせられる可能性があるということに無知な点。知識社会学でも遡れば、ニーチェマキアベリまで遡ることができ、マルクスマンハイム、シェーラーといった思想家、哲学者の名をあげることができるし、システム理論だって、この方にとってシステム理論はルーマンを指すようであるが、システム理論は一枚岩なんかではなく、さまざまなシステム理論が世界中で議論されている。

 おいらは到底、自己の主張を担保するのに「システム理論的には」なんていう資格もないし、勇気もない。宮台さんぐらいだったら云ってもよいと想うけど、とほほは、怖いもの知らずだからね。ほんと、おいら、えばってる印象があるでしょ「表」でも「裏」でも、けれど、そこは安易に「システム理論的には」なんて云うことで食らう、恐ろしい批判には充分に気をくばっているからね。あんま、やっちゃだめだよ、って結論がねーよ、どうしよ。まあ一つ云えることは知識社会学的」に或いは「システム理論的」にオイタしてはだめってことね。っておめえも使ってんじゃん!おわり

 区別という観察の形式による批判作法のテクスト:
 http://jibun.seesaa.net/article/13286182.html#more
 http://jibun.seesaa.net/article/13289232.html#more
 http://jibun.seesaa.net/article/17032710.html

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