外在的な社会に生きにくさを感じる者へ、或いはその脱構築

ーげー理論は実在的リアリティを排除するものではない。私達は自分に外在するリアルなるものを想定しているが故に、それに反発し、屈服し、またはその規範的価値に従って生きる選択をするのだから。また外在するリアルなものを想定しているから、境界線を引き区別を設け観察し社会なるものを見極めようとするのである。でなければ区別する意味はどこにもなくなる。
 
アルな社会の外在性に苦しむ者への処方箋として、閉鎖的なシステムのオペレーションに着目することが一つの指針となろう。

全体社会の中の内的な存在である観察者は、その内在性のために社会全体を表象できることはない。システムの閉鎖性は、観察者が自らが選択的に、社会という環境から情報を取得することで、外在するリアルな社会を自らのオペレーションによって再構築することを含意している。あなたが圧倒され、生きるのに困難さを感じている社会というものはリアリティという実体ではなく、あなた自身がそのようなものとして構成したものなのである。区別を設け観察することで構成された社会は、システムの閉鎖性に依拠しているのであるが、同時に新たに区別を設けることで、生きにくい社会を再構成しなおす可能性を得ている。この作業で獲得し得る「開放性」は、リアルなるものに囚われるている者に第3の選択を指し示す。それはルーマンの提示したシステム理論の文脈とは相違するが、システムの「閉鎖性」は「開放性」の出所であると理論化できるであろう。

に私達は、外在するリアルなものが自己観察されたものである、というテーゼが如何にして成立するか問いに答えなければならない。その端緒として、システム理論及びてーげー理論パラドックスに立脚することで、リアリティを記述する手続きを取ること点に言及しておく。ルーマンパラドックスの定義を援用しよう。即ち、パラドックスとは「自己言及的な循環関係における「否定」を含んだ関係」ということになる。さらに私達は、社会がパラドクスであるという公理を提示する。正確に云うと、社会が見出されるのは上述したように、観察者の区別に拠っている。だから実際には観察者により社会はパラドックスであると観察しているということになろうが、今はあえて厳密性を問うことはしない。この文章の目的は、リアリティの外在性に対して生きることに苦しむ者が思考転換しえる契機を提示することであるから。従って、ここではてーげー理論は社会がパラドっクスであるという公理を理論の中心においていることさえ判ればよい。またパラドックスの存在の真意も問題ではないと付け加えておく。くり返しになるが、その存在如何は観察者の観察に拠るものであるから。

ステムのオペレーションにおいてパラドックスの機能はどういったものなのか。発言という具体的なレベルへ立ち返り「例外のない規則はない」という言説を思考の糸口にしてみよう。この言説で私達は「例外のない規則はない」という規則に例外はあるのか、あるいは例外がないならば、当の言説自体成立しえなくなることに気付くのである。このパラドックスが内包する「否定」あるいは「決定不能性」は、コミュニケーションシステムの継続に頓挫をきたす。換言すると、社会のパラドックスが、そっくりそのままシステムで取り扱われ得るならば即座に、システムのオペレーションは中断してしまうことになる。そこで観察者がパラドックスを認めると、観察者は新たな区別を導入してパラドックスを不可視なものへと変換することが要請される。そうすることで、システムのオペレーションの継続を可能たらしめている。上記の考察によって、私達は次の帰結を得ることができる。つまり再導入された区別はシステムの作動の頓挫を回避するために観察者による観察であり、そのシステムの内的な活動で外在する社会を構築することが可能になるわけである。

後に、私達は、リアルな社会が観察者によって構築される拠り所を延々と、観察者による観察というトートロジカルな記述に求めてきた。こういった作法はてーげー理論が学として成り立たないとの批判を受けるかも知れぬが、だが一方では、ルーマンによる「自己言及的」な思考法に基づくものであり、その点で、てーげー理論はシステム論的であると云えるであろう。



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