2005-02-01から1ヶ月間の記事一覧

『近代の観察』読書会再開〓

▼最初に現在のランキングを確認するなら 人気blogランキング 休止になっていた『近代の観察』ニクラス・ルーマン、法政大学出版局の読書会を再開しようと思います。 ルーマンの難解な著作を一人で読むのに躊躇いを感じる方にルーマンを読むという遥かなる知…

カードシステムについて

▼最初に現在のランキングを確認するなら 人気blogランキングカードシステムに関して少し触れますルーマンみたくなりたい方はこまめにカードシステムを数十年かけて構築すれば、きっと大きな仕事ができるでしょうが、少なくとも私のような一介の社会学徒は、…

琉球にはびこる、「とほほ族」の生態

▼最初に現在のランキングを確認するなら 人気blogランキング私はテレビというものは、全くといっていいほど見ないのですが、先日、友人宅で、あるテレビ番組を拝見する機会があり、そこで「とほほ族」という言葉が使われていました。わたくし的には、「とほ…

出逢いの風景

▼最初に現在のランキングを確認するなら 人気blogランキング 僕は恋をしたんだ。 その夏、僕はヒッチハイクで北海道を旅していた。原生林の静寂さと、ひたすら真っ直ぐな路の彼方から吹寄せる風は爽快であったが、僕は鬱々としていた。理由は判らない。ただ…

自己に外在するリアルなものを脱構築せよ!

▼最初に現在のランキングを確認するなら 人気blogランキングリアルである社会の虚構性については、「リアルな社会とは?」でのコメントで説明しましたが、この点を理解されている方が極めて少ない。疎外論が欠落しているなんて大弾幕を張るから、自分で自分…

リアルな社会とは?

▼最初に現在のランキングを確認するなら 人気blogランキング 私の思考は差異から出発するため、リアルという社会観の共有は排除します。社会システムは、その環境との複雑性の落差によって立ち現れ、我々は区別をもとにコミュニケーションし、システムを記述…

説明と記述

システム論は説明ではなく、記述をしているのみという点は仰るとおり。ルーマンや他のシステム論者も進んで記述というタームを使用しています。恐らくそういった志向は、複雑性に満ちた社会というものは、そっくりそのまま言語を用いて説明し得ない、けれど…

何のための学力か?学力低下論の無思慮

イリイチの『脱学校の社会』が70年に出版され、その論旨を極めて端的に述べるならば、学校に行けば行くほど馬鹿になるということになろうか。この書の影響は大きく、出版を期にアメリカにおける学校の改革を求める主張が方々でされるようになる。日本でもそ…

オートポイエティックシステムの閉鎖性と開放性

オートポイエーシス的システムは、その組織を維持するために必要とする全てを、自己自身で生み出す。その自己関係的または自己準拠的なシステムのあり方から、オートポイエーシス的システムは閉鎖的である。 しかしオートポイエーシス的システムは開放的なシ…

学力低下なんて全く問題なし!

かりにあなたの側に学力低下の問題を強迫観念的に悩みわずらう者がいたとしたら、軽蔑の眼をして一笑に付してよし!何の問題もありません。情報化社会は知のありように一層、複雑性を付加していく過程です。例えば年代という条件で学力を観察するならば、1…

ルーマンと憂鬱

蒼き思い出でも話しましょうか。もうずっと昔の話のような感覚ですが、以前、私は西池袋の3畳一間、家賃月1万円という凄まじいところに下宿していました。その頃の話は鬱系の「あの頃の話」で少し触れているのですが、あの頃は私には常に陰惨な風景が憑い…

てーげー理論、一考

以前に書いた「リアルな社会とは?」、「自己に外在するリアルなものを脱構築せよ!」でのジェローム・パウロスさんに対する応答及びジェローム・パウロスさんのtarotaroさんへの批判が、てーげー革命の大切な示唆となりうる。参照しやすいように一つの記事…

喜劇という喜劇

僕は常に父親を恐れて暮らしていた。父親の帰宅を知らせる車のテールランプが一階の居間に差し込むと、姉は物を云わずに二階の自室へと階段を上がっていく。僕もこれから始まるであろう、ののしり合いを予期し自室へと引きこもる。どなり声が響くと体が硬直…

批判という作法

久しぶりに鬱系のものを書いて落ちてしまいました。少しおセンチになっていたのでしょうか。もう鬱日記の類は書くまいと肝に銘じたのでございますが、世の鬱日記は増加する一方であります。今、悶絶する自分を承認してもらう意味では、鬱日記はプラスに機能…

見るということ

高度な複雑性を保持している世界社会を、我々は俯瞰することはできない。出きる事とは、我々は見ることができるものを見ることができるということであり、同時にそれは見ることができないものは見ることができない、ということを指し示す。社会を観察し可視…

外在的な社会に生きにくさを感じる者へ、或いはその脱構築

てーげー理論は実在的なリアリティを排除するものではない。私達は自分に外在するリアルなるものを想定しているが故に、それに反発し、屈服し、またはその規範的価値に従って生きる選択をするのだから。また外在するリアルなものを想定しているから、境界線…