説明と記述

 システム論は説明ではなく、記述をしているのみという点は仰るとおり。ルーマンや他のシステム論者も進んで記述というタームを使用しています。恐らくそういった志向は、複雑性に満ちた社会というものは、そっくりそのまま言語を用いて説明し得ない、けれどもその複雑性は環境との複雑性の落差によって可視化できるものなのですが、システム論は可視化できた微小システムを記述できればいいんだという立場なのだと思います。システムは存在論的なものをそのまま取り扱うことができるのではくて、あくまでも事象はシステムのオペレーションによって取り扱われたもの、それを記述と捉えているのではないでしょうか。単なる難解な専門用語を使用しているという差異ではありません。いかに論者が容易であろう言語を用いて説明したところで、他者との意味の断絶を狭める蓋然性はあるかもしれませんが、厳密な意味でその断絶を埋めることはできないしょう。ですから説明は記述よりも高次のレベルにあるという発想はあまり有意味に感ぜられません。説明も記述も、コミュニケーションによる意味の創発の過程であり、それが共有されることがないからが故にシステムの創発可能性は存在しつづけることができるのだと思うのです。ちなみに私はシステム論者ではありません。

参照記事:
社会システム理論の野望、あるいは全体性へのオブセッション



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