何のための学力か?学力低下論の無思慮

リイチの『脱学校の社会』が70年に出版され、その論旨を極めて端的に述べるならば、学校に行けば行くほど馬鹿になるということになろうか。この書の影響は大きく、出版を期にアメリカにおける学校の改革を求める主張が方々でされるようになる。日本でもその煽りを受け、早くも79年に文部科学大臣の諮問機関である教育課程審議会において、「ゆとりある教育」を目指す答申が行われた。詰め込み教育への反省から「ゆとり教育」が云われるようになったのは、最近のことのように思われるが、実は、その萌芽は30年近く遡ることができるのである。

89年には学校指導要領が改訂され「子どもが自ら考え主体的に判断し、表現したり行動できる資質や能力の育成を重視」する新学力観が提示される。学ぶ側の主体性を養うという点では、イリイチの主張が反映されているが、そのための「ゆとり教育」なんてことは、イリイチは全く触れてもいない。
 
ゆとり教育」に由来するその後の学力低下論」が現れるのは周知の事実であるが、学力の低下を危惧すべきは、文部科学省の官僚達自身のお頭であり、「ゆとり教育」が批判という世論でもって反発を受けると、30年も以前から構想してきた教育の理念を、いとも簡単に修正してしまう体たらくなのである。03年度予算では「学力向上アクションプラン」と銘打つ対応策にむけて77億円が計上され、偏差値重視の教育に回帰する。
 
は何も「ゆとり教育」を擁護しようとする立場ではない。そうではなくて学力を問題とするならば、"何のための"学力かを問わなくてはならない情況を学力低下論者は認識すべしと云いたいのである。名の売れた大学に入学することが、終身雇用のおすみつきの大企業への就職に繋がり、一生安泰なんていう図式は現代では既にあり得ないわけで、様々なライフスタイルが許容される社会だからこそ、自己のニーズに応じた学力というものを主体的に選択できるような教育プログロムをし提示しなければならばい。単に偏差値のみを上げるだけの教育は、その正当性を担保していたシステムが崩壊した今では時代錯誤としかいいようがない。

会学の古典的理論において、教育の機能は大衆を導き、指導する有能なエリートの創出にあった。確かに社会を先導できるようなエリートの不在は国力の衰退に繋がる恐れを抱かせるかも知れないが、だからといって偏差値向上のための教育が容認されるものではない。社会が未成熟な状態においては、教育によって万能の知を得るエリートの養成は可能であるが、機能分化し複雑性に満ちた社会における知はブラックボックスされることにおいて、知となり得るのである。暴走する機関車である現代では、どんなに有能なエリートであろうとも、そのキャパシティは全知全能の知に触れるには甚だ心許ない。端的に不可能である。
 
は多元化、多層化が一層進み混沌とした様をなす中で、やはり学力を論じるならば、"何のための"学力なのかということを選択的に考えることは不可避ということになる。その点に気がつかず単純に学力低下のみを憂慮する議論は不毛以外の何ものでもない



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