『近代の観察』読書会再開〓

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 休止になっていた『近代の観察』ニクラス・ルーマン法政大学出版局の読書会を再開しようと思います。

 ルーマンの難解な著作を一人で読むのに躊躇いを感じる方にルーマンを読むという遥かなる知の旅へ出発する継起になればと思います。

 

このテキストの対象者は「ルーマンって何?」といったレベル方々ですが、近代の観察の解釈説明をしようとは思いません。それは一つには私への負担を軽減するためです。二つ目はいつも、いっているのよう私はシステム論者ではないので、そんな者が詳細な説明を付するなんて無理に近い。ですから、読書会のテキストを通じて、読者が思考を誘発する端緒となる。そんなものになればと思います。どうぞ皆さんルーマンの思想をそっくりそのまま掬い取ろうとは思わないでください。ルーマン自身が生前望んでいたように、ルーマンの社会システム理論に触れて、新たなシステムを創発する、少し大げさかもしれませんが、理論的に斬新な解釈を構築することを目論んで頂きたい。この知の旅において、ルーマンの思想をそっくりそのまま理解しようという野心は禁物です。一度、その思考作法に陥るとあなたは、ルーマンが生涯をかけて築いた理論という迷宮から逃れることはできなくなります。我々が考えるべきことは、複雑性が高度に満ちているルーマンの知から「選択的」にそれらを拝借し、自己の視点で社会を記述すること。このことを忘れないでください。

 質問に答えるのは大変な負担となるので、基本的には答えないということで。臨機応変にどなたかた代わりに応答していただけるとありがたいのですが。

 現在、ルーマンの著作で日本語訳、及び英訳のものを、全て読書会で扱えたらと、どえらいことを夢想していて、そのために迅速にまた私の興味のない部分は飛ばして読み進めていこうと考えています。ルーマンは丁寧に何度も同じような議論をしてくれているので、飛ばし読みしても差し支えないように思われます。

 できれば、なるべく、いや必ず『近代の観察』を手元に平行して読み進むこと。新たな解釈といっても、ルーマンの文脈で思考していないと読書会を開く意味も半減してしまうので注意してください。

 それではP13から始めましょう。それ以前の読書会は私の運営するサイトから2チャンネル的掲示板へリンクが貼っています。そこの『近代の観察』読者会を参照してください。

 難解なテクストを読む場合注意することは、パラグラフ内の一連の文章の繋がりに注意して読むこと。基本的に一つのパラグラフには、ある一つの主張があり、それを読者に理解させるために一連の文章が有機的な繋がりをもって、主張を支持するのです。

 文章というミクロな視点と同時にパラグラフとパラグラフの関係というマクロな視点も忘れてはなりません。このパラグラフは全段落の「言い替え」なのか「打ち消し」なのか、それとも単に「一般論」なのかという構成の流れにも気を配る必要があるでしょう。

 はいP13の〓からです。第一パラグラフはいいですね。マルクス主義の下部、上部構造は2ちゃんねる掲示板で説明しました。ルーマンマルクス主義が経済システムから全体社会を捉えようとして、それはうまくいっていないというわけです。

 「機能領域」や「機能システム」というタームが用いられていますが、ルーマンの根本となる考えを想起してくださいね。ルーマンにとって近代化とは機能分化の過程です。近代になって、社会、法、政治、経済、学、教育、芸術といったシステムは分化して、それぞれのシステムは自己の機能のみに司ることに徹底します。法システムは法機能のみ、経済システムは経済のみ、と言ったように。

 つづきいきます。近代では、全体社会において経済システムが肥大化している見られるために、諸機能システムを比較して、近代性の抽象的指標を抽出することに失敗してしまっている。

 最後、「ぜマンティク」は通常「意味論」と訳されるが、その内実は後に説明する。うまく意味が取りにくい場合は、「ある社会が利用しうる諸形式 Formen の総体」と捉えておく。


 p14二段落目。ここで近代社会の上述した機能分化したシステムの話がでてくる。
 
  「自律的なものになった機能システム」引用

 自律性はシステムの閉鎖性におきかえられる。閉鎖的ならば、なぜ自律的なんでしょうか?

 システムは環境をシステム内において区別する。区別するとは、「境界線をひき、一方を指し示すこと」

p15に入ります。区別の統一性は、システムがいつでも創発可能性を含意している意味で、所与の世界像を排除する。システムの統一性は「過程」である、からこれ以上、到達可能な認識レベルの終着点ではない。

p15二段落目。セカンド・オーダーとは何か?

セカンド・オーダーの観察によって、自己言及、他者言及という区別の統一性が見出される。
セカンド・オーダーとは「観察の観察」。換言するば、「観察者の観察を観察」すること。これで、上記の文は理解できるであろう。

次回はp16の最初の段落。我々は区別によって指し示された一方のみを主題化することができる。排除されたもう一方は、「環境」となる。システムで区別を取り扱って見えるような場合、それは区別が区別された場合。=観察の観察(セカンド・オーダー)

L13,14。「パラソクスとは「否定」を含んだ自己言及的な循環関係」

「世界はパラドキシカルにしか同定されえない」引用

世界を主題化するには、区別して一方を指し示すことが必要。もう一方は排除されている。パラドキシカルというのはこういう意味においてでは?

・メタ物語 機能分化した近代において、全てを覆い尽くすようなメタな社会的言説は不可能。ある機能システムからの観察でしかない。それはその機能システムを包含する全体社会を説明するものではない。=大きな物語の終焉

P17。・下位システム ルーマンにとってシステムはその内にシステム/環境、図式が観察されうる。

P17の最後。記号と意味内容、ソシュールで云えば、シニフィアンシニフィエが対応、固定されたものではない。=間主観性の否定。例、デリダにおいては、一度書かれたテクストはそれを著した主体から乖離して、意味は「解釈」に委ねられることになる。=構成主義(日本では構築主義の訳が一般)

P19、L3。分析的心理=自己言及(システム)においても他者言及(環境)においても妥当とされる心理。分析的心理は、自己言及的システムにおいて自己言及と他者言及を区別し、一方を指し示したもの。一方を指し示すということは、即ちもう一方を指し示さないことであり、ここにシステムのパラドックスが見られる。つまり指し示さないという否定を含んでいるという意味において。この考えはシステムの閉鎖性に繋がる。

P19の最後の段落。真理とはコード化によって正と区別されたもの。(システム内において真理だと観察されたもの)それ以上でもそれ以下でもない。

P20。真理であると、あるいは非真理であると、観察されたものを確実なものにするためには、セカンド・オーダーが用いられる。つまり、真理/非真理という観察を観察すること。

主観:ルーマンは80年代、特に90年代以降、メタ物語を欠いた近代を言及するに「観察の観察」を頻繁に口にするようになる。ルーマンがセカンド・オーダーの視点を重視していたのは間違いないが、この概念の有効性にはさらに議論されることが必要と思われる。

p21第一段落。法システムの考察に入る。法システムは合法或いは不法という区別に基づいて作動している。

合法/不法のコードは自己言及(法概念への定位)でも他者言及(法概念、法解釈が利害に対して及ぼす影響へと定位する)においても用いられうる。

自己言及の場合:法が合法/不法であるということは、法自身を適用することでその法の合法性または、不法性へとつながる。自己言及的なところに注意。法は自己自身の作動において、合法、不法の決定が合法であると(つまりは不法でないと)見なしている。ここでもシステムの包含するパラドクスが見られる。

他者言及の場合:P21の最後から3行目参照。

P22終わりから3行目。
「経済システムは自分自身を参照する」引用。オートポエーシスとは、システムの諸要素が自身の活動により、システムを再生産するということ。引用の「参照」は、オートポイエティックなシステムを念頭において、「再構成する」「再構築する」と解釈すべきでは?

経済システムにおいて、「需要」は経済システムの外、つまり環境(他者言及)になる。けれど、需要が取り扱われるのは、経済システム内においてである。P23前半の例を参照。経済システムは需要というシステム外のものを、システム内のオペレーションで取り扱う。システムの閉鎖性は環境と何の関係もないということを意味するものではない。閉じたシステムは環境を創り出し、システム内から選択的に環境を参照することで、環境をシステム内的にオペレーションする(カップリング)。

P24から最後まで。
近代社会の特性として、しばしばその合理性が云われる。伝統的な合理性概念は外部に根拠をおいていた。ルーマンはこれに異を唱える。合理性の判断は、システム内において確証される。伝統的な外部根拠も、その根拠は外在性にあるのではなくて、システム内の作動により、外在的なものが根拠となると、システム内において取り扱われたにすぎない。ルーマンは近代社会の特性は、機能分化したシステムの特性に見て取る。「分化形式を通して自己の形式を維持している」P24−25

最後の文に注意。メタな物語の終わり。

以上で第一章〓の読書会終わり。いささか説明に終始した観もあるが、ここで述べたことは、ルーマンの文脈で云うならば、ルーマンの観察の私による観察であるということ。このテクストはシステム創発の端緒にはなるが、システムの根拠にはならない。あなた自身がルーマンあるいは私の観察を観察してください。

何か要望があればコメントしてください。質問も。次回はP25から。

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