第二回『近代の観察』読書会

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取り留めもなく第二回に突入します。けれどこの蟻の歩行のような地道な作業は「誰かのため」だとか考えていてはできませんね。自己犠牲には限界がある。論理分解しながら、ゆっくりと読み進めていくと新たな発見がたくさんある。この緩慢な歩みは全て自分の思考へとつながると思うようにします。もちろん、一人でもルーマンを読むきっかけを得てくれたら嬉しい限りですが。

それと馬場さんの丁寧な翻訳に感謝します。近代の観察はさらりと読むと難解に感じられますが、きちんと論理分解しながら読んでいると非常にいい文章、いい翻訳だと気が付きます。ルーマン本の翻訳がだめなものばかりなのを鑑みると、馬場さんの功績に頭が下がります。

ではp25の〓から。
「近代社会は自分自身に依拠しており」p25L10。これを敷衍するならば、近代社会の観察は自己の観察をも観察する観察である。

p26「理性への解放」ではなく「理性からの解放」とはどういうことか?
前項の最後を参照。つまり、近代社会の特性を理性に依拠していた形式がポストモダン的なメタ物語の終焉で、近代社会は自己自身による記述でその特性を示すことになる、ということでは?

第二段落「世界社会」は、システムも環境も包含し、したがって高度に複雑性に満ちており、あらゆる出来事が生起しうる社会。

第三段落。システムのパラドクスが再登場する。システムは観察において、区別を設け一方を指し示すことで立ち現れる。システムの作動は取り扱っている事柄のみを取り扱うことができる。この文章の含意していることは、システムの作動で取り扱っていない事柄がその作動の地平の背後に存在しているということ。むしろそうであるために区別させシステムが生じる。

けれど、区別し指し示されなかった一方、「環境」は排除され無視されるものではない。p27、L3−4参照。

p27、L8−9。「膨大な数の区別が使用可能であり、同じ事態がきわめて異なる仕方で区別されうる」引用。

この錯綜した情況でシステムにおいて何が生じているか確かめる術は?
それは「観察者の観察」、「観察の観察」L13−15参照。前段落の最後の「区別と指し示しを区別しなければならない」という言及を想起。つまり、「観察の観察」ということでは?

リアリティは観察が観察されることに担保されている。観察の観察はシステム内において、現実に作動したものである。つまりシステムの作動において観察の観察が実行されたものがリアリティにつながる。翻ると観察されないものはリアリティではない。

p27の「したがって〜」代一段落の趣旨。相対主義は近代社会の別様な記述を許容する。では近代性を示すことができないのか?ルーマンは「観察の観察」というセカンド・オーダーを提示する。観察(ファースト・オーダー)は依拠するものがない。セカンド・オーダーは観察に依拠する点で有用。

セカンド・オーダーの視点は何をもたらすのか?p28、L2-3及びp29、L1-3参照。

あとは普通に読み通せるのでは?ルーマンの社会理論は一般性を指向しているが故に、抽象的な議論が多くなりがちである。そういったものはさっさと読み飛ばすように、私はしている。ルーマンは何度も同じ議論をくり返してくれるので、理解するのは次の機会にと納得し、精神衰弱をもたらす深い読みを、私は回避している。けれど、この節の説明した部分以外は、論旨をつかみやすいのではなかろうか、と勝手に判断する。

読み返してみましたが、議論が込み入っていて申し訳ない。けれどもこの種の観察の観察が、深い思考へと繋がると信じましょう。私は信じています。

以上。次回は第二章のはじめからです。


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