てーげー理論、一考

 以前に書いた「リアルな社会とは?」、「自己に外在するリアルなものを脱構築せよ!」でのジェロームパウロスさんに対する応答及びジェロームパウロスさんのtarotaroさんへの批判が、てーげー革命の大切な示唆となりうる。参照しやすいように一つの記事にまとめておく。

 
リアルな社会とは?

[ 社会学 ] / 2005-01-18 17:55:36

私の思考は差異から出発するため、リアルという社会観の共有は排除します。社会システムは、その環境との複雑性の落差によって立ち現れ、我々は区別をもとにコミュニケーションし、システムを記述する。リアルな社会は、システムのオペレーションにおいてリアルであるとコミュニケーションされたものに過ぎず、観察すべきシステムは、観察する自己をも包含するために、存在的なリアルな社会を俯瞰することはできない。つまり、リアルな社会は「ある」ものではなくて、「創発される」ものとして捉えるべきあろう。

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 コメント
Unknown (ジェロームパウロス)

2005-01-25 17:57:12

その考えはおかしい。疎外論が抜け落ちている。創発されたその区別が差別観念として規範化され、人々を束縛し、苦しめるという疎外論の視点が決定的に抜け落ちている。
 あんた自身が精神病という差別観念で職業社会から迫害されているのに、それがわからんのか。システム論は解放の神学としては失格であるので、物質的基盤(意識を越えた社会関係としての真実性)を基本にしたマルクス主義を勉強しなさい。
 システム論が資本主義社会という物質的条件=マクロ社会環境に支えられたイデオロギーだと自覚しなさい。知識社会学を勉強すべし。


てーげー理論 (自分)

2005-01-25 19:14:02

 私はシステム論者ではない、ということを頻繁に書いているのですが、批判、肯定にせよ、システム理論に言及される方がたくさん現れるのはなぜなのでしょうか。
 規範の議論は掲示板で何度となくしたのでもういいでしょう。あなたのおっしゃる自己言及的議論はいたってシステム論的ですが、てーげー理論でも、差別の構造化を無視するものではありません。差別がコミュニケーションシステムにおいて取り扱われ構造化されることで、構造は複雑性の縮減に一役買います。また構造はシステムの区別を決定する原因ではなく、別様である選択肢の中で蓋然性の高い要因として認識され、コミュニケーションの自由度に機能するわけです。あなたが云う「区別が区別を決定する」というのも知性を10年前にタイムスリップさせたならば判らなくもないが、事はそんなに単純、短絡的なものではなく区別されたコミュニケーションは複雑性の縮減に貢献することで、区別されうる区別の束の関係性を絞込みシステムの円滑なオペレーションに貢献しているという具合なわけなんです。

>あんた自身が精神病という差別観念で職業社会から迫害されているのに、それがわからんのか

 一般化して答えると、この差別という観念は外部環境から捉えられたものであり、当のシステムにより取り扱われていないのであるから、システムにおいて差別が意識されるものではない。もう少し敷衍すると、システムは閉鎖的なものであるから、正にそのシステムの属性により、外部環境からシステムを規定することはできない。つまり、わざわざ、とほほにより差別であるんだと、お説教される必要もないということ。なぜならシステムは区別が区別を決定するようなスタティックなものではく、システムの要素が選択的に関係づけられ完全性を排除することで獲得する自由度のおかげにより、いつでも差別を取り扱う地平が開かれているものであるから。また差別を取り扱う蓋然性を保持していることは、差別を取り扱わない蓋然性をも包含しているわけで、差別に気がつかず、てーげーでいられるならば、そのままてーげーでいいでしょう。何の問題もない。お勉強する以前に、お説教の押し売り精神はすてましょうね。
 てーげー理論は世界全体を説明しつくすことを棄てて、真実性なんて、とほほな事を云わず、ただ機能分化した辺境の社会を記述できればいい、ということに止まります。我々にはシステム全体を俯瞰するキャパシティは持ち得ないのだから。さらにてーげー理論は記述が真、為なんていう神学的なものを、とほほだと一笑する。記述されたものは、あくまでもシステムによって取り扱われたものであり、システム内部で構成されたものである。ここでもシステムの閉鎖性というテーゼを想起すれば、上述したものは自明なものと、とほほでなければ容易に理解できるはずである。外部環境をありのまま認知することはないというのが、生命システムにおける研究で明らかにされているものであるが、それは何度も云うがシステムの閉鎖性に起因し、システムは閉鎖的なものであるから、外部環境とシステムの狭間には隔たりがあり、つまりはシステムは外部世界をシステムのオペレーションによって記述構成することになるのである。ただそれだけ。記述はシステムにより創発されただけであるのだから、認識論的存在に捕らわれることもなく、要するに、「システム論が資本主義という条件に支えられたイデオロギー」なんてどうでもよく、例えそうであるとしても、それは単にシステム論が資本主義という条件に支えられたイデオロギーであるとシステムによって取り扱われたに過ぎない、という結果になる。


ラディカル構築主義 (ジェロームパウロス)

2005-02-02 23:50:15

 馬場という社会学者だと思うが、ルーマンのシステム論をラディカル構築主義と位置付けたのを読んだことがある。「社会構築主義スペクトラム」という本だと記憶している。
 創発(特性)という概念は、要素に還元できない統一的な性質ということになる。社会構築主義者らは、脱構築というよりも、物語の書き換えとして、再構築や再構成という言葉を使う。脱構築のほうが確かにラディカルな雰囲気が伝わる。てーげー革命はラディカルなのか?


てーげー理論はラディカルか? (自分)

2005-02-05 16:25:14

 てーげー理論はてーげーの性質上、反ラディカルであり、記述上においてはシステムの様々な創発を認める点でラディカルであり、観察の別様さを許容する出所は、やはりてーげーの性質に基づく。したがって、てーげー理論は、自己準拠的な様となす。
 けれど、上述した文脈から云えば、自己準拠的てーげー理論のラディカル性は、かようの様にシステムによって観察されたにすぎない。それ以上でもそれ以下でもない。



自己に外在するリアルなものを脱構築せよ!

[ 社会学 ] / 2005-01-26 01:43:21

リアルである社会の虚構性については、「リアルな社会とは?」でのコメントで説明しましたが、この点を理解されている方が極めて少ない。疎外論が欠落しているなんて大弾幕を張るから、自分で自分の首を絞める結果になる。確かに自己がうまく環境社会に馴染めないで、疎外感を抱かれる人が少なくないことは判るのですが、それは端的に外在するリアルなものの虚構性を脱構築できていないからである。
 意識システムを構成する諸要素は「思考」ということになりましょうか。ここで自明性の脱構築に必要とされる概念は、やはりシステムは「閉鎖的」なオートポイエティックシステムであるといこと。システムが閉鎖的にオペレーションされるということは、外部環境によってシステム(意識システム)が規定されるということではない!自己と対峙する社会が自己にとって疎外的であるというテーゼは、社会が疎外的であるのではなくて意識システムによって疎外的だと構成されたものに過ぎない。
 要するに気持ちの持ちようか、と嘲笑された方は哲学的あるいは理論的思考のセンスをお持ちではなく、このブログは全く有意味に作用しないであろうから即刻立ち去られることをお勧めします。理論的な思考構築とは、どうでも良いような些細な事柄を重箱の隅を突っつくように考え抜くことであり、リアルという化け物を脱構築したい方には、こういった馬鹿馬鹿しい思考作法が要求されるという事は云うまでもない。
 再度言及します。生きることが困難な者、不可視な社会というものに圧倒され不安で仕様がない者は、システムは閉鎖的に自己を再生産するという点を、自分なりに思索しなさい。それは悶絶の選択かもや知れないが、システムの閉鎖性という概念は、「てーげー」という思考に到達する門戸なのであるから。

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死というリアル (ジェロームパウロス)

2005-01-27 21:02:09

 さすがですな。ならば聞こう。

 自己に外存する一番リアルなもの、すなわち、それは死だ。死の虚構性はどうやって脱構築するのか?
 ブッダは、生病老死を人間が逃れることができないリアルな現象として捉えた。どのようにして、死を脱構築あるいは解脱するのか。 人間は思考によって死を脱構築すると死なくてすむのか。知りたい。そもそも死は思考の外ではないか?それとも、永遠の生命を信じるのか?


脱構築すべきもの (自分)

2005-01-27 21:42:49

 外在するリアルなものを全て脱構築する必要は毛頭もありません。外在的なものがシステムによっ外在的でありてーげーでいられないものとして観察される場合に、その苦しみは外在的なものの外在性に由来するのではなく、システムの閉じたオペレーションによって、てーげーでいられないものとして取り扱われているという点を認識できればよい。
 ハイデガーが云うように死ことが取替えのきかないものであり、生に意味を求めてしまう方々にとって死が唯一無二のものであり、てーげーであることにプラスに機能するものであれば脱構築の対象ではない。
 てーげー理論においては、てーげーでいられるか否かを問題とするのです。


孔子 (アラン・バートル)

2005-01-28 19:01:53

 自分さんに賛成です。てーげーかどうかが僕らの問題なんだ。死については、そうでないかぎり、取り立てて語らず。自分さんは孔子のようで、やはり尊敬したいです。
 呉知英なんかよりも、説得力があります。


社会構成(構築)主義 (ジェロームパウロス)

2005-02-02 23:38:02

 おそらくすでにキッセなどの社会構成(構築)主義については勉強なされていると思うが、リアル(現実)は、社会的に構成され、不動で絶対的な現実などありやしないという立場も確かにある。バーガーとルックマンの立場である。拙者もよく読んでいる。
 最近、流行っているナラティヴ・サラピーは、個人に集点を当ててリアルを再構成することで治療を行っている。
 てーげー革命が、社会に集点を当ててリアル(共同幻想)を再構成する試みなら、新しい社会運動として評価したい。



「太郎丸博さんのシステム論に対する理解は、自分氏よりかなり未熟である。どうやらまだ評するにあたいするほど、社会システム論の根本的前提(真理観)を勉強していないようである。
 
 まず、社会の記述方法には二種類あることを考えていただきたい。
一つは実証的記述、もう一つは物語的記述である。ヘーゲル法哲学と同じく、社会システム論も物語的記述であることを忘れてはならない。社会システム論がホパーのいう反証可能性をもたないことから、実証的理論ではないと言いたいのだろうが、そもそも社会的にリアルなものは構成されたものにしかすぎず、社会に物理的リアリティ(認識と対象の一致という真理観)を期待しても無駄である。
 
 反証可能性という物理的リアリティでもって、社会システム論を語ることはできない。そもそも、社会システム論ははなから反証可能性という物理的リアリティなど前提としない。社会的にリアルなものは、人々のコミュニケーションによって、構成・創発される他なく、言わば、物語にしかすぎない。つまり、物語は外存化、客体化、内存化によって、暫定的な社会的なリアリティを獲得する。
 
 あらかじめ(社会)全体という何かが存在しており、それを記述・説明するのではなく、その全体を多くの他者に語った時点で、全体という共同の物語が構成され、創発されるにすぎない。あなたの全体を説明できないという発想それ自体が、すでに認識できない全体というリアル(意識の外)をつくりだしていないか?実は、あなたがそう語ることで実は否定神学的に全体(もの自体)を創発するおそれがあるである。要注意である。
 物理的リアリティの通用しない社会という領域は、システム論的なしい社会構成主義的に観察・記述するほうが適切だと思うが、どうだろうか?
 社会はあるものではなく、社会はつくられるものという視点に立てば、システム論に違和感は感じないと思うが、あなたの場合、完全現実として社会を捉え、それに依存するという立場のようですな。社会に拘束されているという感覚が強い方かもしれませんね。それなら疎外論的に理解できますが。」前文引用、author ジェロームパウロ

参照記事:

社会システム理論の野望、あるいは全体性へのオブセッション



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