ルーマンと憂鬱

き思い出でも話しましょうか。もうずっと昔の話のような感覚ですが、以前、私は西池袋の3畳一間、家賃月1万円という凄まじいところに下宿していました。その頃の話は鬱系の「あの頃の話」で少し触れているのですが、あの頃は私には常に陰惨な風景が憑いてまわっていたような気がします。今もそれほど変わりはありませんが。
 
きる目的がなかったあの頃、私はひたすら社会学の文献を読み漁って、それで一時的にカタルシスを得る事で生き長らえていたように思います。アルバイトは数え切れないほどやりましたが、取替えのきかない私はどこにもいませんでした。綺麗に辞めたバイトは一つもないと思います。だいたい喧嘩か無断欠勤でくびになるのがオチでした。
 

のやり場のないルサンチマンは知へと向かう原動力を増幅させました。何一つ人に誇れるものがない私は分厚い専門書を読む作業が、生産的であり高尚な行為をしているように感じたのでしょう。ほんとひたすら読みました。当時ルーマンの『社会システム理論』を読んでましたが、ほとんど判らなかったと思います。けれども、ルーマンという輩の思想はどこか私を惹きつけるものがありました。その頃、『秘密と恥』という書を出版して、少し株の上がったルーマン研究者が東北大学にいました。今、読み返してみると大したものでもなく、むしろ冗長で知的好奇心の隅っこにも触れるものではないのですが、当時の私は『秘密と恥』を読んで、この人の下で学びたいと自己催眠してしまったわけです。別に東北大学に入学する気も金もありませんでしたから、テント暮らしをする傍ら、大学の講義を聴講すればよいと思っていました。
 
走で大雪が東北地方にみまった日に私はヒッチハイク東北大学まで赴き、その研究者に会って、自分はルーマンを勉強したいから面倒みてくれと頼み込んだのでありました。その時、質問されたことが一つだけ覚えています。研究者は私がミードも読んでいると知ると、ミードとルーマンの思想の根本的な違いは何かと尋ねられたのです。当時の私は、理由もなくルーマンがやりたいといった、精神論的な目的が先走り、東京の陰鬱とした生活から何とかして抜け出したかった、その矛先をルーマンに向けたのだと思います。ですからルーマンの思想なんて全く判りません。当然、質問にも答えられるわけがない。
 
京にもどり暫くして、研究者から電話がありました。研究者いわく、私には研究する素質がないのではないか、現にルーマンをやりたいと云っているが、質問に全く答えることができない。研究するにしても東京のほうが、東北の田舎よりもよっぽど、その環境が整っているので、私の面倒はみれないし、東京で勉強を続けたほうがいいとの趣旨でした。もう東京から出ていき、ルーマンを勉強するんだとばかり思っていて希望に胸を膨らませていた私は一気にどん底に落ちました。一寸先は闇、どうやって歩き、どこえ向かえばよいかも判らなくなりました。ルーマンは僕に大きな挫折感を抱かせたのですね。それからルーマンを読むことはあまりなくなりました。ページを紐解いても、ちんぷんかんぷん。あの研修者の私に対する率直で正に的を得た、言葉が蘇ってきて、ルーマンはその後も私を苦しませ続けました。

となっては、あの質問にも答えることができるし、あんな二流の研究者に学ぶべきものはないので東京に残ったことは正解だったのですが、ただ今も尚、ルーマンの著書を開くたびに、あの頃の陰惨な風景は私の脳裏を埋め尽くし、不意に逃げ出したくなる恐怖に襲われるのです。



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