喜劇という喜劇

 僕は常に父親を恐れて暮らしていた。父親の帰宅を知らせる車のテールランプが一階の居間に差し込むと、姉は物を云わずに二階の自室へと階段を上がっていく。僕もこれから始まるであろう、ののしり合いを予期し自室へと引きこもる。どなり声が響くと体が硬直してしまう。子供にとって最も辛いことは、両親が仲たがいしている光景であった。父親の罵声は、物心付く頃には日常になっていたように思う。その日常は僕が中学に入りしばらくして、父親が家を出て行くまで毎日くり返された。毎日が地獄であった。毎日が。

 学校時代の僕を知る者は、家での僕のびくびくした姿を想像できないはずである。学校はそんな自分を忘れるための場所であった。笑いの中心はいつも僕にあり、教師からするとクラスの風紀を乱す問題児になるが、それでも僕は教師をも笑いの中に取り込むことで問題児という汚名を喜劇に変えてしまう術を得ていた。僕は話術で皆を従えさせ、教師でさえも、何となくあいつは憎めないという印象を持っていた。クラスの笑いの中、喜劇を演じる僕の人格の分裂に全く気がつくことなく。
 
 小学校5年、夏を向かえ、成績表を見た父親は、「おまえは落伍者だ」とぽつりと洩らした。僕は落伍を落語と解して、へらへら笑っていた。父親の視線は恐ろしいほど冷たかった。辞典を調べ、落ちこぼれという意を知った。父に褒められているとさえ思い、笑っている自分に異様に腹が立った。最も僕が得意としていた喜劇が、喜劇を生み出させた者によって、頓挫してしまったのである。

 それ以来、僕は一層、父親を恐れ、それだけの腕力があるならば直ぐに殺してやりたいほど憎んだ。あの全てを見透かしたような冷徹な視線に悩まされ続け、不完全な喜劇の筋書きを一寸の隙もないものとするために学問へと傾倒していった。

 そんな事をこれっぽっちも意に介しない父親は、暫くして女をつくり家を出て行った。結婚の幸福というものを一度も味わったことのない母に対して気の毒で仕様がなかった。僕という存在のために母は家を出ることができなかった。学校での問題児は喜劇を演じとおすことができたが、家での僕は母の不幸の源である正に問題児なのであった。
 大学へ入学する前に、暫くぶりで父親に会ったことがある。僕の記憶の中では、腕が太く筋肉質で背が高く顔立ちのよい(実際、父はよく女に好かれた)はずの父親は、僕よりも背が低く実際は僕が追い越してしまったのだが、はげが進行し腹のでっぱりは醜い中年であり、黄色い歯を出して品がなく笑った。

 ああ、こんな惨めな男の影におびえ僕は生きてきたのか。そこにいる父親は殴り倒す気力も失せてしまうほど不憫で情けなかった。これからはお前が苦しむ役割である。お前が終わりのない、悲しすぎる喜劇を演じて生きてゆけ。父と別れ、僕はもう演じる必要のない喜劇に幕を下ろすことに、そしてあいつの喜劇という三文芝居の始まりに快感を感じていた。その後訪れる、さらなる苦しみに辛酸を舐める、第二幕目は始まってもいないことを知らずに。


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