第四回『近代の観察』読書会

 読書会、第四回目です。初学者のための社会システム理論に関する文献を一つ挙げておきます。『社会システム論と法の歴史と現在』河上倫逸編、未来社。日本で開かれたルーマン・シンポジウムを本にしたものです。ルーマンと諸学者先生との対談は、肩肘張らずに読めます。批判や質問に対するルーマンの的を得た応答には圧巻です。改めに、この人はすごいと思い知らされます。

 また、ルーマンの著作を多数翻訳している土方昭さんの発表というか愚痴というか、暴言はカットされているのですが、その、とほほさは笑うしかない。この人の翻訳を読むと自分でも判らないまま翻訳の作業をしているのではと疑ってしまいます。

 
 

 端的に云うと土方昭さんの翻訳は日本におけるルーマン研究に、ほとんど貢献していません。返って、翻訳のひどさのためにルーマンの理論は奇奇怪怪なものとして敬遠される原因ともなった要注意なお方なわけです。この方がルーマンに間違った翻訳のために、システム理論を誤って解釈していると揶揄される場面はうけます。

 それと今田さんが、セカンドオーダーについて、そんなこと皆、無意識のうちにやってるよ発言も笑えました。理論や思想に携わっている者に、この手の発言をする人は多いのですが、そんな取るに足らない些細なことを言説化して、深く思索するのが理論構築の作業だとも云えるわけで、今田さんは優秀な研究者ですが研究者らしからぬ、ご発言ということになりましょうか。

 前置きが長くなりました。それでは始めます。p33の〓からです。この節は歴史的合理性の変遷に触れながら、前節の議論を発展させていて非常にエキサイティングだと思います。第三回において、合理性を主題化する場合に有用な示唆となる前提を説明しましたが、あれとパラレルな議論がされているので、第三回を読まれた方は理解しやすかったのではないでしょうか。

 ざっと解読してみます。〓の最初から4行目の「自然」の概念ですが、伝統的な社会、特に中世においては「自然」は規範的合意を有していました。近代では「自然」と対比されるものは「文明」となりますが、伝統社会では「無秩序」が反意語だった。つまり自然は秩序を示す概念だった。伝統的な社会では人間の行為は理性を有していて、それは自然的秩序によって担保されていた。自己の存在や自然の構成要素は合理性であり、従って存在や自然=本性は外部に依拠する必要はなかった。伝統社会は分化(複雑性)が進んでおらず、理性によって全体社会を表象することが可能であった。

 p34は歴史的変遷に触れている。軽く読み通そう。

 p35の冒頭。18世紀に入り、理性は差異に基づくようになる。

 p35L6。高精度な合理性とは何か?
それは分化したシステムの差異に基づいている。機能システムは、システム特有の観察しかできない。機能システムの観察は部分的視野になることは不可避。けれども文化したその部分に特化することで合理性は高性能なものとなる。部分システムによる合理性は、全体社会を表象することはできない。機能システムが自律的に扱いうる範囲において、合理性は成立する。

 p35の最後の段落。19c以降、区別によって近代が特徴づけられる。
「話者は物語を演出する(中略)しかしいずれにせよ話者は物語のなかには登場しない」引用、p35の最後

 ファースト・オーダー視点では自己観察されないということでは?
 分化したシステムは二分コードの区別に基づいて作動するが、システム自身は自己の作動の影響を受けることはない。法システムは合法/不法の区別を設け一方を指し示すが、当該の法システムは指し示された、或いは指し示されなかったものによって法システムを断罪されることはない。

 システムの観察は自己記述できない。19cにおいてはファースト・オーダーの視点に留まっており、差異による統一性というセカンド・オーダーのレベルではなかった。

 p36L6。「隠されたりしつつ」引用。区別におけるパラドクスはコミュニケーションが接合するために、意図的に隠蔽される必要性が生じる。

 p36最後。近代での区別の問いは、何が区別される→いかに区別される、への移行。或いは誰が区別するへ移行。この部分を誰か解釈してみてください。

 p37最初。理性による世界の確実性の証明は消滅した、という。

 p38 デリダの「ロゴス中心主義」の批判は有名。現前化したエクリチュ−ルは主体を離れオリジナルの意味から乖離し亡霊のごとく彷徨い歩く。したがって、ロゴスといった絶対的なものを排除する。

 p38後ろからL4。るーまんの認識論は構築主義の立場に含まれるであろうが、ルーマンはだからといってリアリティを無視していたわけではない。L4のような発言は度々、リアリティについてのルーマンの考えを惹起するために議論される。

 p39二段落目L5。観察者自身の区別する折の位置はどういうところになるのか?この段落重要。

 p39次の段落。観察の二つのレベル。観察の端緒はマークを設けること。これでマークされた空間が立ち現れ、また一方で、マークされない空間もある。それぞれ前者がシステム、後者が環境に対応。これはファースト・オーダーの視点。マークは世界に区別を設け、単に二つのレベルの空間を生み出すのみ。

 このファースト・オーダーの視点では、いかなる区別が用いられているかは明示できない。観察は区別を設けて一方を指し示すことで可能となる。区別は観察なのである。けれどもその区別がいかなるものか判別できないのだから、ファースト・オーダーにおいては観察者は観察されないということになる。この段落の最後において後の段落でセカンド・オーダーが提示されるであろうことを示唆する。

 p40の最初の段落。全体社会を説明するイデオロギーの終焉。では我々は全体社会を如何様に観察するべきなのか。段落最後において、観察の観察(セカンドオーダー)を提示。

 P40、代二段落はそのまま読み通していいだろう。

 p41、最初の段落。観察者の利点が書かれている。観察者の観察は、観察者が如何なる区別を用いているのか、さらにどちらを指し示しているのかを見ることができる。また観察の観察は、観察者が誰なのかをいうこと主題化可能。セカンド・オーダーの視点は多くの可能性を秘めていると云えよう。

 ファースト・オーダーも観察である。例えば、伝統社会における、中心や頂点から異議を挟む余地を排除する全体社会の観察。伝統社会における合理的な観察はこのようなものであった。p40の代一段落参照。ここで観察する者は、その絶対性から自らの観察を合理的であると信じて疑わなかった。だが、ルーマンの観察の二つのレベル。この種の観察はファースト・オーダーであり、それはルーマンの言葉を借りるならば「合理的な愚か者」ということになろう。

 我々が広い視点で観察ができるには、いかなる区別がされていて、どちら側を指し示しているのかを観察することである。それは観察者の観察、或いは(自己という観察者の観察)に用いられる区別、合法/不法、善/悪といった、二値に注目することでもある。セカンド・オーダーのもたらす恩恵は、観察者が区別の一方だけを見るのであり、つまり指し示されなかった側は見ることができない。換言すると観察とは、見ることができるものだけを見ることができる、ということ。セカンド・オーダーから得らうる、こういった知識を自己の認識論に取り込み、より深い思考を獲得できる蓋然性を得る。注意すべき点として、観察者の観察は、新たにセカンド・オーダーの観察対象になりえるということ。この事実は次のようにも表現できる。つまりセカンド・オーダーも、新たに観察されるならば、ファースト・オーダーだということ。これらを考慮すると、観察は観察することで観察を再生産する自己言及的でオートポイエティックな作動なのである。

 最終段落。ポストモダン的な社会記述の特徴は、相対主義である。この主義はいかなる社会に対する言明をも容認する。何でもありの形式がポストモダン的なもの。ルーマンポストモダンが絶対的中心からの観察を放棄している点を評価している。

 解読はここまで。

 次回は第二章、〓です。ルーマンを読むとその抽象的表現のために理解できないことに腹を立て、ご自分に腹を立てるならば見込みもあろうが、ルーマン自身に立腹し、ルーマンの理論を省みる必要のないものであると、気の抜けるほど安易な断定を下す方が多くある。社会学者の中でさえも、己の頭の悪さを棚に上げて、ルーマンの理論は無意味であると断罪する者も少なくない。そういった学の専門家の方には、己の恥を曝すぐらいならば沈黙するほうが、学者として自己反省できる点で、よほど無理解に対する真摯な態度ではないかと思われる。ルーマンはマイナーである。今では読まれることもない。などと某ブログでの評価を拝見したが、そんな者は馬鹿たれと一笑してやればよい。

 近代の観察においてもルーマンは抽象的な表現は読者を苦しませる。私はルーマンについて語るほどの知的素養に欠けているが、ルーマンの書く作法は一般理論の構築に野心を燃やす気概を感じざるをえない。それは、あの独特な落ちつき払った態度で些細な誤差もないマシンの気概なのであるのだが。

 この読書会において、抽象的ルーマン理論を具体的に、また理解を得るために記述するべきなのであろうか。否、そんなことが可能であるのか。その実現が絶望的なものとなるのは目に見えている。だから私はこう云うしかないのである。

 私によるルーマンの観察の観察は、読まれれば明白、著しく抽象的形式である。至らないところには我慢してもらうしか仕様がないが、けれども私のその理解不能性な作法を選択した観察は、読者のご立腹を買うやも知れぬが、確かな事は理解不能性を包含するルーマンの観察の観察であり。ルーマンが見ることができるものを見ることができる、或いは見ることができないものは見ることはできない、ことを知的歓喜と精神衰弱が混在する中で観察したものなのである。ルーマンを読み同一性に到達する必要は全くない。その態度こそルーマンが最も忌み嫌ったものであるのだから。であるならば私の観察の観察は、伝統的な文献購読に求められるものとは意を体する。正しい/誤解という区別は、ここでは必要はない。ただ観察に用立てば、それだけでいいのだ。観察を観察せよ!



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