合意か差異か

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 稚拙な批判なので簡単にお答えします。

ハーバーマスのえらいところは、ルーマンのように安易に世界の複雑性という形而上学的観念を導入せず、社会システムの外に生活世界なる実践的領域を提唱したことです。

 社会システムの外には世界があるとしか言わないルーマンの思考では、社会システムの退屈さに耐え切れない超越系の若者が安易に世界という観念に逃げ込み、自己の願望を投射して真理を得たと豪語し、ホワイトブラザフッド化してしまうわけです。例えば、社会の外にある宇宙法則とか霊界とかUFOなどに逃げ込み、自己を保とうとするわけです。


 ハーバーマスと同じ典型的存在論と一笑しましょう。ハーバーマスは社会システムを近代資本主義における経済や国家を想定しており、生活世界をその外にあると捉えているのではなく、伝統的な討議における合意によって形成された妥当で自明なものが、「分離」していくと捉えています。ここでの基本的な考えは、社会システムは存在するものであるということ。

 

 社会システムは差異を端緒として、いつ、いかなるところでも創発され得ます。「社会システムの退屈さに耐え切れない超越系の若者・・・」。勝手に存在論を拠り所とした、退屈な社会と云われるが、あなたの生活が退屈であるということでしょうか?社会システムは「ある」ものでなく、創発されるものです。創発されたシステムが退屈であると観察されたならば、コミュニケーションは連鎖していくのだから、区別しなおし、新たにコミュニケーションシステムを創発しなおせばいいこと。ちなみにハーバーマスも近代の複雑性を認めていますが、かれのコミュニケーション的行為は合意が合意を連鎖させていくという作法です。そこで社会が「退屈」であると合意されたならば、その合意は人を幸せにするでしょうか。それよりも区別が区別を再生産する自己言及的なシステム理論は、いくらでも社会をいごこちのよい場として観察する可能性を包含している。「合意」ではなく、「差異」を端緒としているのだから、違う何かを区別しなおせばよいことでしょう。説明済みを再び書きますが、リアルであるか、ないかなんて問題ではありません。それが議論の対象になる時は、自分の生きにくさがリアルに感じてしまう場合のみです。そして、私のテクストを参考にしていただける方がいるのならば、そのリアルなものは、存在論的に「在る」ものなのではなくて、いくらでも脱構築可能なんだと提唱しているわけです。

 二値論理の批判も、紋切り型ですが。それも世界は観察可能なんだという呪縛にお気づきになられない哀れさ。世界と生活世界を関連して考えているようですが、世界はあらゆる可能性の総体であるために観察不可能なものです。であるからその可能性を縮減したシステムが創発され、我々にできることはそれらを記述できればよい。記述とは真理を見て取るものではありません。先に述べたようにシステムはいくらでも観察可能なのだから、今、創発されたシステムを観察するには、第三項を排除した、二値というものが単純明快。真理を排除した自己言及のダイナミックな連鎖を観察するには二値が最も扱いやすい。観察に不満があれば、再び二値に基づいた区別をすることで、不断ない観察を創発すればいい。一方、妥当で自明な生活世界を想定するのは、言うまでもありませんが、現代の社会状況を一瞥しただけで、あまりにも稚拙なものと、これまた笑ってしまいます。

参照コメント:http://jibun.seesaa.net/article/8657759.html#comment

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