小さな憎悪

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 月日
 「暑い日が続きますが、体調はいかがですか?仕事には復帰できたのでしょうか?時に体調知らせてくれたら嬉しいです。僕は精神衰弱激しくだめですが、仕事はなんとか進めています。全く売れません。私には作家としての才能がないのだと思い、恩師の福田先生に泣つきました。あなたにそっくり、そのまま、写してお送りします。どうか無名の作家の晩年だと笑ってください。」


 

 第一の手紙

「先生、私、かなり脳が壊れています。精神衰弱は結局、先生の下で学んだ、学生時代だけでは治癒せず。売れない作家となった今でも、苦しめられ、その辛苦は増幅していくばかりです。それでも、私は書いています。売れなくても。自分を作家と思いたい。
 二度にわたる脳病院の休息も、いえいえ、休息というよりも、人生の脱落者のスティグマの受容でしかなく、残ったものは膨大な借金のみ。自殺、酒、借金、女、すべて文学のテーマなのだと、自分自身を無理やり自己肯定し、何もできない私であるけれども、ろくでなしさなら、それならば、他人と勝負できるのではないかしら、全て試してみたはいいが、落ち着くところはコカインで壊れた脳を覚醒させるだけ。気がつくと私は三十を越えていました。
 私が、精神の病に苦しめられても、学校を辞めずに(ご存知の通り、最後は学費滞納がたたって、放校になってしまいましたが)にいたのは、先生がおられたからです。無知、怠惰な弟子は入学する以前から、先生を意識していました。入学試験会場での私は混濁した虚ろな目で、上目遣いに先生を見やっていました。びりから三番目の成績でなんとか合格して(放校になる前にお世話になった、事務の関口さんに教えてもらいました。)
 先生のゼミナールに初めて出席した、あの時、先生とノルベルト・ボルツについてお話した、私は正に「意味に餓える社会」の一住人でした。
 イメージの福田葉蔵から、真摯に生きられる福田葉蔵に触れ、この方だ、この方なのだ、この方と同じ数だけ歳を重ねた時、先生に読んでもらい恥ずかしくないものを書きたい。心底そう思ったのです。けれども先生は「書きつづける」という最も私の恐れる作業を、江藤先生亡き後も第一線でされておられる。私の志は挫折するばかり。
 先日、学生時代に書いた小説が、押入れの中から出てきました。7年も学校に在籍したのに、これだけしか、書けなかったのかと苦笑してしまいましたが、それでも、これは私の生きた証なのです。これを、自費出版で世に出そうと思い、借金の催促に奔走しましたが、学友だった者達は、また借金の催促かと怪訝な顔をして、案の定、借金だと理解すると、あれや、これやと理由を云っては断るのでした。あいつらとは縁を切ります。先生、なんとか、先生のお力で出版できないでしょうか。もちろん読んでみてください。なに、よいものが書けていると自信はあるのです。けれども、よい小説が売れるとは限らないのが悲しいとこです。だから、私は現在でも売れない作家をしているのですが。どうか、出版させてもらえる編集者の方を紹介して頂けないでしょうか?才覚なくしても、私は文に携わって生きていきたい。どうか私にチャンスをお与えください。お返事お待ちしております。 卜部拙 、一弟子。」



 第二の手紙

「福田先生、暑い日が続きますが、ご体調のほうはいかがでしょうか?先だって、お酒ごちそうになり、いえ、いつもごちそうになり、内心、常に恐縮しております。
 私は今、自分を殺したいほどの強烈な自己嫌悪のとらわれて仕様がありません。あの原稿、いえいえ原稿と云えるようなものではない、戯れの独語を先生にお渡ししたことが、毎日、脳裏から離れないのです。
 下らないものを読むことほど、腹の立つことはありません。それを思うと、お怒りを通りこして、批判さえもしていただけないのだろうかと、夜も眠れない気持ちです。
 お忙しい中、ご迷惑でしょうが、どうか辛辣な批判、アドバイスをお待ちしております。恥を忍んで申します。卜部拙、一弟子」


 第三の手紙

「卜部です。暑い日が続きますが、残暑見舞い申しあげます。編集者の方のご意見はいかがでしたでしょうか?急かせるようで恐縮なのですが、あのテク
ストが売文に値するかどうか頭から離れないのです。何か知らせがあればメールを頂けないでしょうか。なんとかあれが、出版されるようにお力添え、をお願いいたします。きっと売れます。必ず売れます。先生もよい弟子をもっていると、評判となることでしょう。ですからあの小説を出版させてください。
 世間で言う労働ができない私は、無知蒙昧を知りながらも書くことしかできないようです。精神衰弱いっそ進み、リタリンを日に10錠服用しても、耐性のため脳が刺激されず、返ってリバンドに苦しめられています。浅い眠りに落ちても悪夢の連続、うなされて目覚めると、次は幻聴が襲ってくるのです。
 最近、私はもうすぐ死ぬのではないかという妄想にとらわれて仕様がありません。死ぬ前に私が生きた証を残しておきたい。小説も少しずつですが、書いています。先生にいい作品だと思われるものを書きたい。生き恥、さらす嫌悪と戦いながら申します。卜部拙、愛弟子」


 
 月日
 「どおぞお笑いになってください。けれども、よい作品でも、世に出すには、力を持っている方の協力が必要になるのです。それが現実です。
 まだ決定ではありませんが、ここ数年、書きためてきた物が本になるかも知れません。いえ、きっとなるはずです。あの小説はとてもいいもんなんだ。後は、編集者の判断です。出版決定祈ってください。死ぬ前に生きた証しが残ればと思います。けれども、まだ書くべきものが、自分にはあるような気がして内心不安定この上ありません。ご慈愛ください。 卜部拙」

 月日
 「体調は波がありますが、マイペースでやっています。仕事はまだお休みしています。本の世界はよくわかりませんが、出版よりも書くこと自体がすばらしいと思います。生きた証も、形に残ったり、他人が判断するものではないと、私は思います。自分の魂がどれだけ豊かになっているか、目に見えないものが大切だと思います。どうそ、心と体を大切に、生をまっとしてください。 江畑ゆり」

月日
 「体調が心配で何度か電話しました。マイペースでやっているとのこと安心しました。心温まるアドバイスありがとうございます。以下、少々引用させてください。

「生きた証も、形に残ったり、他人が判断するものではないと、私は思います。自分の魂がどれだけ豊かになっているか、目に見えないものが大切だと 思います。」

 いえいえ全く違います、自分が生きた証は、他人が必要なのです。だって、この世に自分しか居なければ、僕らは自分という観念を持ちえません。自分が誕生するには、他人との差異が必要なのです。あなたは、aさもbさんでもcさんでもない、江畑ゆりとして存在しているわけです。
 魂の豊かさの基準は何ですか?それも、やはり他人との差異の中でしか、測りようがない。他人を見つめて、初めて自分の居場所が確認でき、それを比較対照することで、魂が豊かどうか判断することができるのですね。
 学問的には全くの常識なことですが、魂の豊かさを目指すあなたには、気づかなかったようですね。豊かさが足りないということでしょうか。
 精神の病気になると、往々にして何か、紋切り型で、中身の空虚な精神論を唱える方がいますが、それは余計にあなたを苦しめることになりかねないことをご忠告しておきましょう。
 私は、あなたといた約5年の月日、そして、あなたの裏切りによって苦しめられた、また5年を、必至で取り戻そうとしています。いろいろ、放蕩をしてきましたが、それらには何の悔恨の念はありません、唯一、あなたと出会ってしまったことが、私に人生を無為に過ごさせ、大きな大きな汚点となりました。
 あなたがいなければ、僕は20代で大きな仕事ができたと確信しています。人、一人の出会いで、こんなにも人生が狂ってしまうことを思うと、恐ろしくて震える思いで書いています。                                      卜部拙」

 

 その後、卜部の恩師である福田葉蔵は、小説が出版できるよう、各出版社を奔走したが、どこの編集者も頭を立てに振らなかった。
 卜部拙は現在、脳病院に入院しているが、体調は悪くない様子である。いつも、看護婦や白痴のような、もの申さない患者たちに向かって、屈託のない笑顔だそうだ。
 「僕の本が出たのです、出版されたのです。ぜひ、読んでみて下さい。なかなか、いい作品ですよ。ええ、僕の名前は卜部拙と申します」

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