終わっている人たち。ニート論2 −『「ニート」って言うな!』篇−

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『「ニート」って言うな!』ですか。まず、読者諸君、 
 
 http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20060113
 
の後書きと、自意識の恐ろしく肥大化したコメントを3回読み、大笑いしろ。この部分を読むだけで、この方も終わっていることに、当ブログの読者の皆さんはお気づきですよね。筆圧を強くしても、だめな者はだめだとホント判るからと再三申し上げてきました。けれど、このお方、限りなく、とほほな方なのですが無害ですから。

 

 とほほというか、驚いたのは、2chの社会学版で宮台さんを真似て悦に入ってるど素人は恐ろしい程の数になるだろうけれど、「社会学者」で宮台さんを真似ている方がいたという事実でございます。けれど、懸命に演じても、宮台さんの二番煎じさえなれないから。吐き気をもよおす程の自意識は宮台さんもこのお方も同様ですが、宮台さんの場合は、そんなキモムカつく奴だけれども、この人は凄いと他者を説得する術と能力を備えていらっしゃる。この点が決定的な差異ではないでしょうか。宮台さんはこき下ろしますが、論理でもって根拠を示しますからね、内藤氏も、ぜってー読むことはありませんが、著書においては「論理的」にこき下ろしてくれているはず、きっとそうだ、そう願おう。ですが、少なくともブログにおいては、「ばか識者」と云うが、どこが、どのように馬鹿なのか示されておらず、そういうのを僕は筆圧を強めて書いても、論拠を示さなければ、あなたも、おばかな識者のお仲間なんだよと、まだ若き研究者に送る言葉。って、内藤さん、あなたより、そうとうな若造にこんなこと云われるのも終わっていると切なくなるのであります。

 趣旨から外れるかも知れませんが、少し宮台さんについて触れておきます。90年代は宮台さんが、論壇を席捲しましたが、故見沢知廉さんの『天皇ごっこ』において、あれだけ相対主義者を吹聴していたのが、天皇制もあり、みたく少し怪しげな様相を呈するようになり、亜細亜主義と云うに至り、ついに小室直樹化したか否かは存じないが、私の場合、もうサイファ辺りで、宮台さんに対して、うんざり気分になっており、そこまでで宮台さんをキャッチアップするのをやめちまったのだけれど、ああ、ごめんなさい。私的なお話ばかりして、宮台さんについて触れたのは、宮台さんの罵倒作法について言及したかったためなのです。まず、宮台さん本人は、「はげオヤジ」の類の罵詈雑言を議論、或いは論破する形式として取り入れたパイオニアだからよし。おいらの世代は普通にオヤジをオヤジとコバカにするから、これもよし。けれど宮台さんより数年後輩の従って、既に、ご自身がオヤジの域にいるのだけれど、「はげオヤジ」と罵倒するってのは、これぜってー、確実且つ100パー、宮台さんの二番煎じなわけで、そのまんま、パクッて実践しているのが痛いほど胸を突き、思わず嗚咽が漏れそうになるくらい儚く、けれど、やはり社会学者が宮台さんの言説のみを借用して無頼ぶるが、体裁だけは整えても、肝心の能力までは真似できない、それ即ち無害ということになるのである。僕はかりに自身が内藤氏の立場であったならば、ああ、次の様なことを想起せざるを得ないのである。それは、太宰がお道化を演じることで学校の人気者の地位を獲得するのだが、ある時そのお道化の最中に、最も、馬鹿にして気にもとめる存在でなかったある級友に、「技、わざ」と耳打ちされ、皆を騙しとおしていると信じていたのを、予期想定外の者から見透かされることで、突然、冷や水を浴びせられたようなショックと恐怖が入り混じり貧しき者を畏怖する様である。

 さて、本来ならば、さくっと社会学的に記述して、はい、おしまいとしたいのであるが、ブログにおける僅かな資料からさえ、明日、学校で使える笑いのネタを見出してしまい、まずは、その部分に触れさせてほしいのである。次の文章はブログからの引用である。


「「ニート」が忘れ去られた後でも、本書は版を重ね、多くの人々に有益な視点を提供し続けると確信している。将来、ニート騒ぎは本書によって思い出される歴史的な事象になるだろう。
 大衆の中に憎悪が蔓延するしかたが、その社会の根本的なありかたとその欠陥を映し出す。本書では、青少年ネガティヴ・キャンペーンに対する人々の反応をリトマス試験紙のように用いて、われわれの社会の欠陥を明るみに出すことに成功した。本書はニート問題をきっかけとして、われわれが生きているこの社会の原理的な困難を突きつけるのである。

 本田と内藤の執筆分では、このような原理的な困難に対して、新しい社会構想を提出している。後藤は、「あたりまえ」にくるんで世にばらまかれた個々のニート言説を、「あたりまえ」でないものへと異化していく。世に氾濫する言説を突き通す「目の動かし方」のレッスン集として、ぜひ精読していただきたい」引用

 
 皆の者よ、再度、笑え。
 
 ですが、著書のほう、売れ行きがいいそうでおめでとうございます。正に歴史に残る書になるやも知れません。けれど漫画などの世界は100万部なんて、ざらですが、売れて10万部、数十万部で万々歳のこの種の書籍の世界、「将来、ニート騒ぎは本書によって思い出される歴史的な事象に」本当になるのでしょうか。いえいえ、疑っているわけではありません。そんな、ぜってー、読む必要なしだから、おいらにとって、そんな読まずに批判するのは、阿呆のすること。ただ、あの、ただ、私はこんなことを危惧しているのです。それは、あの、周り見渡せば、400万部ですか、「せかちゅう」でさえ既に世間では顧みる者さえいないのに・・、いえ大丈夫です。400万部突破なんて、当たり前ですよね。500万部、狂乱の歴史を顧みる記念碑的書であるのだから、600万部だって夢ではないかも”知れないかも知れない”

 しかし、そうすると一方でニートと言うな!と云っておきながら、他方で、この著者達自身がニートという言説を再生産している、このパラドクスは意識的なのであろうか。青少年ネガティブキャンペーンとご自身が怒り狂うから、さらに「ニート」という言説がネガティブな意味あいをおびるのに、一役買っていることにお気づきにならないのであろうか。内藤氏も後藤氏も、「希望のニート」において述べたように、ニートを憎悪の対象として観察しているものと同じ区別を区別しているのに過ぎない。つまり、再度、説明するけれども、ニートが憎悪の対象/憎悪の対象ではない、という区別において、多くのマスメディアは憎悪の対象を指し示すことで、ニートを観察し、内藤氏らは単に同一の区別の反対の側をマークしたに過ぎない。

 先に複雑性という観察の形式について触れたが、それが意味するところは、同一の区別の一方を指し示すことも、また他方を指し示すこともできるという事のみを含意しているのではなくて、つまりは区別そのものを新たに区別しなおすことが可能であることを意味するのである。自らがニートの言説の再生産に加担しておきながら、その意味内容を異化させていくならば、端的に異化するべき、ニートに対するステレオタイプの観察とは違った、区別をすればよいことなのである。新たに区別して一方を指し示すということは、つまりシステムを創発するということであり、実はニートの言説の意味内容に変化をきたす唯一の方法は、「ニートって言え!」ということなわけである。「ニートと言うな!」ではなくて。一旦、ニートをテーマ化したシステムが創発し、これだけ広まっている中で、子供の喧嘩ではあるまいし「ニートと言うな!」といって、システムの連鎖が止まることがあるわけがなく、というより「ニートと言うな!」ということも、ニートというコミュニケーションシステムの創発に一役買っているという事実にさえ、意識的ではないのだろうか?

 いいですか、ニートはコミュニケートされることで、僅か2年足らずの内に、社会が自らをアイデンティファイするのに使用しうるゼマンティクの一つになる。そして、「ニートと言うな!」ということで、あなた方もそのゼマンティクの形成に手を貸したわけです。けれども、社会が使用しうるゼマンティクは「ニート」のみではないし、ゼマンティクを存在論的に捉えている傾向を窺うことができますが、それは、ニートというコミュニケーションシステムを創発することで、換言するならば、コミュニケーションすることでコミュニケーションを自己言及的に、またオートポイエティックに再生産され、その過程において、ニートというゼマンティクは吟味され、参照されることで、新たに且つ不断に変容し続ける蓋然性を確保するわけです。ニートの言説を生むことに加担し、他方では「ニートと言うな!」という果てしないほどの無知か、それとも戦略的に考えた上での狡猾、偽善であるかどうかは、私にとってどうでもいいこと。ただ全く阿呆な結論へと向かおうとしている。それを私は危惧しているわけで、もう一度いいましょう。「ニート」という言説は生まれてしまったわけです。それに対するマスメディア或いは、国民の「ニート」に対する意識に変容をきたす唯一の術は「ニートと言うな!」ではなくて「ニートと言いいまくれ!」ということです。

 内藤氏が「ばか識者」と仰るのはご自由であるが、少なくとも確実に他者から見れば「ニート」という範疇に含まれる私、つまり「ニート」から「ニートと言うな!」と言われるのではなくて、「ニート」に「ニートと言いまくれ!」と諭されている姿は、哀れな識者と他者に眼に映るに違いないだろう。


【付言】
 ニート論に関して、後藤氏の江原氏批判を読ませて頂きました。あなたの批判が徒労で、且つ全く意味のなさない長文テクストをネットに曝し、間違って他者が読んでしまうことを鑑みると、これは大罪に値する。

 後藤氏はテクストを書くにあたり、他のスピリチュアリズムに影響された方を取材したであろうか。答えは否である。かりに、取材していたとしたら、あんな批判として破綻しているものを書くはずがない。

 あのテクストは批判になっていなく、従って無用の長物ということに相なるのであるが、それがなぜなのか、後藤氏が真摯に熟考されるとすると、いいものが書ける視点を身につける、かもね。

 何がどうしようもなく破綻しているのか、書くかもしれないし、書かないかもしれない、判りません。ごめんなさい。でも、ほんと単純なことなんだけど。



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