終わっている人たち。ニート論1 −『希望のニート』篇−

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 ニートを語るのはノータリンだけれども、ニートを語る者を語ることは、溢れ返った愚才の輩に己の阿呆を知らしめるために、必要なんですね。

 ニートを語る薄らばかさをシンボリックに表現するために、『「ニート」って言うな!』内藤朝雄、他割愛、と『希望のニート二神能基、二つの著作にご協力願いする。

 

 けれど前者は読んでいない。というか、絶対、こんなの読まないから。それはブログにおける後書きと、勘違い的遠い世界へ行っているコメントを一瞥しただけで、終わっていることが判る。後者は2005年の6月に出版されているが、同年の11月頃であろうか、古書店の百均で見つけ購入した。生まれて即棄てられた、「ニート」問題を扱う御本、ああ、何て儚いのだ。内容はああ、そうですか、とポツリともらし、けれど触れるべきものはない。

 批判する作法として、批判者の書いたものを読むことは、「いろはのい」、だけれども、このテクストの目的は、著者を批判することではなく、ましてや「ニート」を語ることでもなく、そうではなくて、「ニート」を語るものをメタなレベルから観察することで、あんたらもう終わっているからという認識をしつけることであり、終わってる典型として、ご協力ありがとうございます、両氏を観察させてもらうのである。

 であるから両著の内容には触れない。内藤氏のよく、まーこんな大口叩けるな、というおじさんになっても若気の至り忘れないブログにupされている後書きとコメントさらに両著のタイトルをニート論の無知の典型としてシンボリックに取り扱わせてもらう。我々はそこに窺われる戦略の短絡さを観察することで、ニート論の無知を把握できればよい。特に両著のタイトルに注目するであろう。なぜなら、それだけでニート批判、ニート擁護どちらでもよろしい、この種の書の愚かさが容易に暴露できる。しかし、書のタイトルというものは、案外、編集者によって変更されたり、決められたりといことがあるのだが、それはこのテクストの目的が、阿呆の典型の「代表」として両者をシンボリックに扱わせてもらい、「ニート」論のどうしようもない下らなさを読者にご理解して頂くことを考えれば、この論が破綻するものではない。メタな視点で、ニートについて語ることを装ったとしても、両氏は「ニート」批判を繰り返す者と機能的に等価であり、いやむしろその短絡的思考の鑑みると、「ニートニート」と阿鼻叫喚の如く声高に叫ぶ者共よりも、愚かであるかも知れない。

 『希望のニート』ですか。複雑性という観察の形式から云うと、いかなる観察というものも偶発的なものなのですが、著者は団塊の世代よりも数年先輩ということですが、育った社会史は団塊の世代と変わることはないので、思考形式もほぼ同じといってよい。この世代が、ほんと困ったさんなのは、以前に投稿したテクストにおいて触れていますが、その思考法は単純なのだけど、それが正しいと信じて疑うことをしない。そして、社会を愚痴りながら自分の思考を他者に押し付ける。いえ、いえ何も二神氏がそうであると云っている訳ではございません。ただ、この世代はそういう兆候が顕著であり、私の出会ったこの世代の方々全て同じ兆候が見られました。愚痴、文句を満面の笑み、「はい、そうですよねー」と応答しておれば、何の齟齬も生じることはありませんが、一言、反論しようものなら、ああ、恐ろしい。身の毛がよだつ想いでございます。実際、この世代はニートというタームに異常に反応する人達なのですが、それは、戦後の貧しさから懸命に働いて這い上がってきたという自負をお持ちで、そうしますとニートなんて甘えるな!冗談じゃねー!働け!と叫ぶ姿はそれはおぞましいものなのであります。得に定職を持たないものに対する蔑みと憎悪は甚だしいものがあります。ほんと偶然、たまたま、偶発的に、貧しき時代に生まれただけで、あなた、かりにあなたがその時代に生まれてくることを選択し、自らが窮乏の生活を経験することを望んだのならば、あんたは偉い。ですが、団塊の世代団塊の世代として生まれてきたのも、たまたま、僕ら世代が豊かさを享受できる時代に生まれてきたのも、たまたまなのであり、それでも団塊の世代が味わった辛苦とは、質が違いますが、豊かさを享受できる時代に生まれた者たちにも、その時代特有の苦労というものがあるのが常とは考えられないのでしょうか?『希望のニート』という著書は、困ったさんの世代なのですが、ニートに対して寛容かつ期待すら抱いているようで、かなり柔軟な思考ができるお方かと存じ上げました。

 ですが、やはり団塊の世代とは端的に馬鹿であると申さなければならないことお許しください。
 
 ああ、つい興奮してしまい、ごめんなさいね。観察は偶発的というお話でした。偶発的ということは、いかなる観察も可能であるということを含意しておるわけで、ですが、著者の観察は「べた」なんですね。「希望のニート」。あるテーゼに対して、アンチをもってくる、そんでもって社会の価値を転覆をきたすだなんてね、いえいえ、こんなことは著書申しておりませんよ。けれども、何かこのタイトルから著者の世代の短絡性を見て取ってしまうわけでございます。

 けれども、二神氏は立派な方なのです。NPOの代表を務め、不登校や引きこもりの社会復帰の支援をしているそうです。不登校や引きこもりに社会復帰が必要なのかという議論には立ち入ることはしないでおきます。

 ああ、皆さん、今は新聞各紙もデーターベース化されており、ネットを通じて記事を調べ、実際に読むことまでできます。大学生の方なんか、これは結構知らない方がいるのですが、図書館がそれらのデーターベースと契約しており、学生は無料で過去の新聞記事にアクセスできる。知らなかったという方は図書館に問い合わせてみてください。そして練習ついでに「ニート」を検索してみましょう。恐らく、2004年の前半以前において「ニート」は検索に引っ掛かることが、ほとんどないと思いますよ。つまり、「ニート」という言説がない以上、「ニート」は存在していなかったということです。ある社会的な事象は言説化し、「意味」を指し示されることにより、社会問題となるということです。

 私は先のテクストにおいて、
 
「阿呆な類型わけでニートを言説化したことで、その言説化されたものは、ある意味あいを派生させ、その時代や社会での諸規則を表すものとなり、人々の判断の拘束性を含むようになる。そうしてニートという言説は、そのあいまいな定義づけから、それまでの引きこもりや登校拒否児童、失職者、フリーター、ホームレスあるいは社会の潮流には流されない個性も、一緒くたに「ニート」であると一瞥し修正されるべき対象というレッテルを貼る装置へと変貌を遂げるようになる。」  

と書きました。二神氏の最も、愚か者で且つ偽善であるところは、『希望のニート』が出版された、一年と数ヶ月前までは「ニート」なんてことは、社会で語られることも無かったし、おそらくご自身も「ニート」を問題視することがなかったであろうということ。だって、「ニート」という言説がその時の日本では存在していなかったのだから。あーあ、二神さん、あなたは尽力をつくして不登校や引きこもり、の方々の支援に身を捧げていたであろうに、ご自身の支援する対象の方々を、「ニート」というスティグマの烙印を押したもうたのですね。それが意識的でなくとも、或いはニートに「希望」という形容を付与したとしても、ニートと非難する者と何ら変わることなく、機能的には等価であるということも知らずに。

 観察は観察するやいなや、二次的秩序の観察に曝されることになります。観察の観察をする見知らぬ他者たちは、著書の観察を如何なる区別において、どちら側を指し示したのか、或いは指し示さなかったのかを見る。先ほど「ベタ」と申しましたのは、メタレベルにある観察者は著書の観察を、希望のニート/希望ではないニート、という区別において、単に前者を指し示したに過ぎない観察であるということを観察する。

 あらゆる観察は偶発的であると申しました。とすると、著者の観察した区別を用いて、著者以外の誰かが、「希望のニート」のもう一方の側を、つまりは、「希望でないニート」を指ししめすことは十分あり得ることで、さらには、区別自体がそれまで「ニート」と非難する者と同じ範疇の区別を用いている。機能的に等価と申したのは、区別に基づいた観察の形式において、その区別が「ニート」を批判するものと何ら変わるところがないという意味においてであり、偽善と申したのは、自己が支援していた対象を自らがもってして「ニート」にしてしまう言説をばら撒いたということで、支援していたその対象の方々を社会的に「逸脱者」と見ていたと他者に受け止められても仕様がない汚点に由来します。

 ですが、古典的な逸脱論からすると、「ニート」という逸脱者の烙印を押された者は、存在しないというパラドクスに陥ることになる。逸脱論の古典は、「社会」が逸脱者を創出するという見方をします。その点から基礎教養を説明してみると、逸脱者はまず、社会によって、「逸脱者」であるというラベリングされ、さらに当の本人がそのラベルを受容することで、その時点で「逸脱者」が生まれるというメカニズム。

 ならば、これだけ「ニート」という言説、乱れ交わされる渦中でさえ、実は「ニート」なる者は存在していないということになる。なぜなら、「ニート」という範疇でくくられる方々は、「ニート、はっ?、それがどうした?」つーかんじ?、正にそういう世の主流に影響されることのないという属性において、「ニート」と烙印を押されることになるのであるが、「ニート」が「ニート」であるためには、ニートである/ニートでない、という区別でもって、己から前者を指し示す必要があるわけだけれども、何度も申しますが、「ニート」なる属性は、ニートである/ニートでない、なんて区別自体を区別することはないから”ニート”なわけで、存在しない「ニート」を狂気の如く非難する者、即ち阿呆か白痴であるということになる。ニートを語る者を語るのも同じく阿呆、おまえの「ニート」は、いずこやら?と質問投げかけたくなる衝動にかられ、ああ、この人達は終わっていると儚い想いに陥るのでありました。

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