『福田和也と<魔の思想>』について、或いは福田和也という人

http://d.hatena.ne.jp/eculus/20060115#c1138636640
 
において「福田和也と<魔の思想>」について触れております。ついでに以前にeculus氏も、まあ、だめな弟子の僕に感想を聞いてみたい、ようなことを書かれていた気がするので、少しお話します。

 はい、読んでいません。僕は藤沢に住んでいるのですが、藤沢という土地は昔の東海道の宿場町の面影と共同体的な要素が残っており、住むには大変よい場所なのですが、書店がない。(おかげで読まないでいいものを読まずにすみ、一次的文献のみに集中できるのでポジティブに機能しているのですが)、一軒、ゆうりん堂がありますが、僕にとっては書店とは云えないレベルです。ですが、先日、お指摘の書を、ゆうりん堂で見つけ、ぱらぱらとめくって、10秒で平積みされていた元の場所に戻しました。

 読んでいないので、内容には触れられません。且つ読むつもりもありません。であるので想うところを書いてみます。何の興味も持たなかった理由は明確です。それは今、現代において文壇のお偉いさんの福田和也について書くことに、何か意味があるのだろうかということです。

 これが例えば、小林秀雄やバナナパパの全盛期に、彼らの評論を書くならば、それは読むに値するものになるやも知れません。しかし、今日の文壇の盛衰甚だしく、その親分について書いたとしても、親分自体の社会的影響力なんて微々たるものなのだから、福田和也について書くのは自由ですが、あんたー、書くならもっと偉い人について書けば、という気持ち。

 もちろん、福田和也は偉いですよ。偉いというのは、文士として尊敬しているということです。氏はポストモダン的に振舞う流れにおいて(ポストモダンも既にイケてないのですが、この点で東浩紀もなんだか時代におきざりにされた感を見て取るのは僕だけでしょうか)、この人は三島の時代までの作家が醸しだす芳香がぷんぷん匂い、「ラストサムライ」ならぬ、「ラストブンシ」とさえ思えてくる。実際、実生活においても、私の知る限り、昔の文士という感じです。行きつけのサロンと云える場所があり、そこで酒をかっ食らい、優雅に或いは醜く、他の文士の噂話に興じる。僕はそういう遊びを知っているというか、遊び方をわきまえている所に昔の文士像を重ね合わせてしまい、そして、そういう所がたまらなく好きなんです。でもね、今の文壇は昔の文士たちと一緒に死んでいますから、福田和也に対して云々いったとしても、それがどうしたで終わってしまう。

 今が例えば60年代でしたら話は別ですよ。当時の学生達は真剣に文壇誌を読んでいた。そして友と思想について議論を戦わす。今、どれだけの大学生が文壇、論壇詩も含めて読んでいるのでしょうか?もし書店で文壇誌を立ち読みしている光景を目撃したら、そいつは限りなくキモイ奴でしょ。端的に、そんな時代状況になってしまっている。福田和也について書くことにどれだけの意味があるのかと申したのは、そういう点においてです。

 僕が何のためらいもなく、師である福田和也について、こういう事を書けるのは、以前に氏が話された言葉を想起しているからです。「生意気な若者の言葉に対して腹を立てるようでは、まだまだ大した器ではない」と。実際、氏はこの「自分」なる、人を怒らせることにかけては一流の僕に対しても、大いに寛大であった。今でも僕は、師に対して『日本の家郷』は全く面白くないし、あれが三島由紀夫賞はおかしいと何のためらいもなく云えます。けれど、福田和也という人間はそれを受けとめられる人だと疑うことがないからです。

 タイトルと関係ないものになってしまいましたが、想うところを書いてみました。

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