外部根拠というアポリア

http://d.hatena.ne.jp/eculus/20060115#c1138636640
 
 この対話の中で、「外部根拠」とはどういうことだ?とのお話がでてきます。私自身、外部根拠を自己の思想の拠り所とするな、との発言をよくしますが、内と外って何?どこまでが内で、どこからが外なの?って、確かに素朴な疑問であり、且つ理論的に「外部根拠」を捉えることは、ある意味、困難であり難問なのである。
 
 実は外部根拠というのは、語っている本人にとって、システム内的に外部根拠が登場してくるわけですから、内ということになる。内とは、端的にシステムと言い換えてよい。例えば、ニーチェが、かくかくしかじかと云っていると、自己の主張を補完するために引用したとする、システム創発の差異となった、ニーチェという環境をシステム内的に理解している点で外部ではない。ですが観察者には、ニーチェを登場させた観察のその区別も、況や区別の境界さえ意識的ではない。区別に基づいた観察は、境界を引いて二つの空間に分割した後、一方を指し示すのではなく、区別するということは指し示しであり、指し示しは区別されたということなのであって、従って、この例での、システムの分出は、区別と指し示しのワンセット同時性に拠っているものとなる。観察者は境界を意識しなければ、環境さえも見えていないかも知れない。或いは自分が観察していることさえも。つまり上記したものがファースト・オーダーの観察のレベルの様相であるわけです。

 しかし、他者が上記の観察を観察する、つまりセカンド・オーダーのレベルの観察においては、ファースト・オーダーの観察が如何なる区別で、どちらの空間をマークしたか、或いはしなかったのかを観察することができる。この段階において内と外という境界が明確になる。であるから外部根拠云々と文句をつけることができるわけであるのだが、しかし、セカンド・オーダーのレベルの観察も、システム内的に構成されたものなのであり、そうすると内と外を観察した観察者は、直接、内と外と関係することはない。なぜなら、内も外も観察の観察をする観察者のシステム内で継起した出来事なのだから。自己言及的システムとは非常にパラドキシカルな問題を孕んでいる。それを新たに区別することで、その問題を先送りにするという作法で、自己言及的システムは、オートポイエティックに連鎖していくことが可能となるのである。要するに常に観察の対象となる環境世界は、システム内的にしか語り得ないということであり、だとすると外部根拠を物理的な問題へと還元することはできなくなる。

 では我々は、「外部根拠」を如何様に概念化できるであろうか。まず、冒頭に立ち返ることで、二つのレベルの観察の差異に着目し、そこから何らかの示唆を得ることにする。それは次のようなものである。ファースト・オーダーのレベルでは境界自体が不可視であるために、システムのパラドクスに自身、気がつくことなしに、システムの作動の接続可能性は失われることはない。次に、セカンド・オーダーのレベルの観察では、区別によって、マークされた側とされなかったもう一方の側つまり「環境」を観察するということであり、自律的であるが、自足的ではないシステムにとって、可能性として自己言及に齟齬が生じてシステムの作動が接続できなくなる恐れが生じることになる。

 さて、ようやく、「外部根拠」の概念を示しうる準備が整うことができた。であるが、これまでの理論的考察と接続させるために「外部根拠」の概念化は抽象度の高いものにとどまることにする。それにより理論的にあらゆる状況下で用いることができるからである。再度、システムの自足性に立ち戻り、「外部根拠」の概念を提示する。システムは自足的、つまり選択的に環境からシステムの要素を投入することで、自律的なオペレーションにそれを活用している。また、環境に選択的に対応するには、上述したセカンド・オーダーの観察という条件が要求されるであろう。即ち、「外部根拠」とは、環境との対応において、自己言及システムの作動に頓挫をきたすあらゆる可能性の総体である。或いは、自己言及的システムとは、区別した当の区別に新たな区別を再参入することを含意しており、その点を鑑みて、「外部根拠」とは、区別の再参入という作動が接続不能に陥るあらゆる可能性の総体である。「総体」ということは、外部根拠もまた、他のシステムとの差異を見出すことで、システムとして分出し得るということである。

 だが、ここで想起しなければならないことは、セカンド・オーダーのレベルの観察も、新たな他者の観察にとっては、ファースト・オーダーの観察であり、新たな他者には、「外部根拠」の批判をあびせた、ファースト・オーダーのレベルの観察者も含まれ得るのである。自己言及的システムとは、区別が不断なく継続するシステムであり、その意味でファースト・オーダーのレベルの観察者が、「外部根拠」という批判点に限定しなくても、区別を区別することでセカンド・オーダーのレベルへと移行し、メタなレベルから批判する地平へと開かれているということである。

【註】
無策氏の云う二値論理に関して陥る誤りに関してこれを見よ。二値論理及び、二元コードは二項対立でもないし、二値論理による観察は単純であるという馬鹿馬鹿しい批判への答え。「ホワイトブラザフッドへのレクイエム 〓オヤジ的観察」

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