自意識のかたまりの生き恥の記念碑

んー、厳しくなってきたみたいだねー 投稿者:芹沢一也 投稿日: 3月18日(土)00時00分3秒   引用
厳しくなってきたねー、早くも底がみえてきたよ。固有名詞の羅列でしかないよ、最新の書き込み。「言語感覚」だけがよりどころですか。これまた「閉じた」話だね。うちわ向きの文章はいらないから。これって「べた」だよねーって、お友だちと言い合ってるのかい?
ぼくはどっちでもいいですよ。理論でも分析でも、お好きな方を選んでくださいませ。
あと、余計なお世話かもしれないけど、「運動の敗北から次は構造主義が台頭してくるよね、個人の至って主体的であろう行為も実は社会構造と密接に関係しているんだという思想」、こういう文章はあまりに無知を露呈していて恥ずかしいから、いまのうちにこっそり削除しましょうね。24時間、お勉強してるんでしょう(笑)?読んでないの、ばればれだよ。
主体がカントの論理学からきた…?カントくらいはちゃんと読んでおこうね。
うーん、確かにいろいろはやったねー。これには同意するわ。宮台「教祖」様のもとで、九十年代、ルーマンもはやったもんね。みんなシステム論で物言うようになったもんねー。「成熟社会」とかもねー。「べた」だねー。あっ、「べた」っていう言葉もそうだったね(笑)

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あんたも具体的でな 投稿者:自分 投稿日: 3月17日(金)23時26分52秒   引用
 社会学はあまり知らないみたいだけど、思想はおさえてるのね。主体はカントの論理学からきたんだね。あのカントの方ももういつぞや現れて、お答え済みだし、現象学もつい最近云ったような気がするし、ああ、ハイデガーね、フッサール知ってたら、システム論的考え方わかるから、これもべたなのもってきそうだなー。フーコーの権力論もこれは言語感覚ではイケテナイね。エピステーメーって、これもイケテナイよ。先に釘をさいとくけど、パノプチィコンとか、云ったら怒るかんね。もうお腹いっぱいだもん、だから言説ね、ディスクルに拘るのね。一時期、フーコーの権力論ははやりにはやったでしょ、もう云ってくることわかるから、内藤だって、フーコーねってわかるよね、でもミスリードだけど。以前にダダくんだったよね、フーコーさんがいて、それもお答え済みだから、あんたほんとべたなもの書いてきたらおこるよ。みんなが云ってること、さも、どうですかー的に云ってくる人ほんと多いからね。よろしく。ああ、ステータスとかはブルデューからきてるのかなー、これもわかるよね、何がべたか。そして、具体的な事象を考察はどこという、お・ま・えこそめちゃめちゃ抽象的じゃねーか。


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んー 投稿者:芹沢一也 投稿日: 3月17日(金)22時19分12秒   引用
「自分で判るよね、単純でなくて、支離滅裂だよね。主張のあらを自分で見つけて、補完しようとするけど、やっぱそれはね、ステータスなんて関係なく、判る人がみれば、芹沢さんの言説は全く強化されるようなことはないと判るから。」
「だから芹沢さんが即席で作った理論的な文章も内容に触れるべきものではない一般人のものってのも、判るし、それはご自分でも判るよね。」
んー、この文章は誰に向けて書いてるの?ギャラリーかい?

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(無題) 投稿者:芹沢一也 投稿日: 3月17日(金)22時01分33秒   引用
「じぶん」さん、遠慮しなくて大丈夫です。「現代思想入門」みたいな文章を書かなくてもいいですよ。

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認識と対象について 投稿者:芹沢一也 投稿日: 3月17日(金)21時50分11秒   引用
「自分」さん、こんばんは。認識と対象について述べていませんでしたね。
ぼくは認識と対象は一致「させられている」と考えています。とはいえ、物自体が認識可能だということではなく、人間には世界が現象として現前するということです。つまり、世界はつねに分節化されており、その分節化において認識と対象とは一致して現われます。問題は人間を現象内存在にするもの、つまりはなにが認識と対象とを一致させるかですが、ここはいわゆるカント的な問題ですよね。つまり、感性と悟性の媒介の問題です。いくつかの解決策のなかで、僕自身はハイデガーのものを採っています。つまり、構想力ですね。認識論においては、ぼくはカント=ハイデガーラインで考えてます。『カントと形而上学の問題』です。ただし、そこでぼくは構想力を歴史化したフーコーの立場に立ちます。つまり、エピステーメー、あるいはそれを受け継いだ権力を、ぼくは歴史化された構想力として読んでいます(エピステーメーを、新カント派的な「図式」のラインで読む方向は採りません)。さて、ぼくにとっての人間は言説=内=存在です。これは権力論を採用したあとにおいてもそうであり、なぜなら分節化されたものは言表可能だという立場、あるいは言表可能なもののみが分節化されるという立場に立つからです。こうした意味で身体論の立場にはぼくにはまったく立ちません。さて、世界の分節化を支えているのが権力という立場に立つわけですから、ぼくは当然、権力分析、つまりフーコーの言説分析を方法論として採用しています。そこで、認識と対象、つまりは主体と対象、あるいは言葉とものを、それぞれ分散したトポスとして、その関係性の様式を探ろうとするわけです。
これがまずはぼくの認識論的な立場です。
で、最新の書き込みへの回答はまた後でしますわ。

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(無題) 投稿者:自分 投稿日: 3月17日(金)21時37分57秒   引用
僕は一般人の人と対話するけど、議論はもうおわり。自分で判るよね、単純でなくて、支離滅裂だよね。主張のあらを自分で見つけて、補完しようとするけど、やっぱそれはね、ステータスなんて関係なく、判る人がみれば、芹沢さんの言説は全く強化されるようなことはないと判るから。それを認められて、能力に背伸びしないことができれば、いいものが書けるようになると思います。あとは、社会科学的知識だよね。例えば、今、社会学の分野で「主体」ということをいう、その言語感覚だけで、社会学的素養はないなということが判るのね。別にね、社会科学や哲学の最前線に迎合する必要はないんだよ、けれど知っていないと、流行の理論には迎合しないという立場を取れないよね。例えば思想史からいうと戦後、日本は実存主義が流行するの。それは、国家から管理されていた自己に気がついて、その中からサルトルなんかが、仕切りに実存ということをいうようになる。初期の存在と無なんかでは、個人とは主体的な決断と責任をうけおい、自由に自信を変えることができる、ようなことを云うのね、共産党に入ることはなかったけれども晩年は社会の序列化中で個人は埋没してしまい、自由の獲得のために革命をといて、学生をアジり、ビラ配りまでするけれども、60年代の日本と同じように革命は失敗に終わり、フランスでもサルトルは今では顧みられることもない。とドゥルーズがいっていた。運動の敗北から次は構造主義が台頭してくるよね、個人の至って主体的であろう行為も実は社会構造と密接に関係しているんだという思想、その後のポスト構造主義の通ていする考えは、主体の消滅ということ。フーコーは自分はポスト構造主義者ではないと云っていたけど、人間の終焉というよね、デリダは、初期においてなぜ、著作において自分の写真をのせなかったのか、それはもうテクストさえ一度書かれたものは、主体から遊離して亡霊のごとく彷徨い、テクストの意味さえも、書いた主体の意図なんて関係なく、自由な解釈可能ということををシンボリックに表そうとしたんだね。僕は不断はこういうことは書かないの、そんなことは知っていて当然のことだろうと思っているから、でも地道に勉強していけば、上記した思想的背景にてらして、書き手の言語感覚を見るだけで、その書き手がどのくらいの能力があるかもわかり、小難しくかいても、論理分解すれば、それは破綻しているか、いないかも判るんだよね。僕はでかい口たたいているようだけれども、ほんと地道というか、命すりへらしながら読んできて考え、実際、もう何日か判らないけど1週間以上は寝てないと思う。24時間机に向かいっぱなしで、おけつに床ずれができてるの、これまじでほんとなんだよ。でもそうしたいからしてて、だけれども、体と精神はぼろぼろになり病院送りということになるんだけど、それでも好きだから止められない。それを続けてきて、完全に根っこがもうできあがっていて、根とは、理論的なものね。いつも、僕は頭の中で自分と議論してるわけ。考えうる批判的選択肢を出して、それに答え、そこからまた考えうる選択肢に答えるという作業を延々と繰り返す、そんな地道なことを積み重ねて理論的根っこを形成し、それはまったく揺らぐことがない。例えば、罵詈雑言どうぞといっているのも、そんなことで傷つくような論理ではないから、自尊心も全く揺らぐことはないのね。むしろその雑言を楽しんで、それを端緒に何が書けるか何か思考的に得るものはあるかと思うわけね。根っこがちゃんとできあがれば、そこをベースとしてあらゆるテーマについて答えることができるようになるの。だから芹沢さんが即席で作った理論的な文章も内容に触れるべきものではない一般人のものってのも、判るし、それはご自分でも判るよね。自意識めいいっぱいで、自分に背伸びして、失敗するよりも、最初から赤っ恥覚悟で背伸びせずのほうが、芹沢さんがいう対話するならば、そうならなければ。最後に一つだけ一貫している破綻をいうと、やはり外からの観察してしまっている、それに気がついていない。社会のステータスを序列づけているのは、社会ー内ー存在である芹沢さんだよね。それは、芹沢さんが社会を外から観察して序列づけたものだよね。そして、芹沢さんの外からの観察に芹沢さんが登場することはないよね、あのね、てーげー理論って赤っ恥なこというけど、てーげー理論はシステム論もそうだけど、すべてはたまたまという観察の形式を採用するわけ、そうするとたまたま、といういう観察事態もたまたまという観察の一つに過ぎないということが判る。これは、たまたまという区別がふたたび、区別したものの中で語られているということだね。つまり社会を記述する理論の観察にその理論自体が登場しているという点でその理論は普遍的なわけなの。自分もその観察の中に登場してくるという意味で、統計だとか、だれか偉い人のことばを引用して外部根拠とする必要がないわけ。以上。こんなところで。

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(無題) 投稿者:安原 投稿日: 3月17日(金)16時37分10秒   引用
おっしゃがんばってください。イケテきたら、また声かけるぜ(笑)
>芹沢氏はただで書いてるよねー。
誠実だからね。

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(無題) 投稿者:自分 投稿日: 3月17日(金)16時12分7秒   引用
沖縄の宗教のなんて全くいっていないから。僕の書いてるの、時事問題や論壇のお決まりの問題、靖国少年法天皇制、のようなエンドレスな感想文のぶつけ合い、とか書いてないよね。それって書いても読んでもらえないから、もう出尽くされてるパターンの中で戯れることしかできない。皆が騒いでいること書いても、読まれないのね。普通に思いつくことは、全国レベルでみれば凄い数の人が思いついていて、人が書いてないこと書かないと見つけてもらえないし。でも、例えば依頼があればいくらでも求めるように書ける。例えば国家論を諸君が書けといってきたら、求められなくても諸君的に国家論を書くのができるし、それがプロでしょ。例えば宗教についてニートについて皆が語っていること書いたとしたら、皆が見えていない、あるいは誰もいってない所から書かないと。例えば宗教を観察するは、複雑性という概念から、真理はシステム内的に真理であること、それからセカンドオーダーに接続させることね、こんなこと誰も書いてないから。ニートのも区別という観察の形式で誰も論じていないから。えっ?あのね、ほんとに編集者さん?今は少し下火になってきたけど、例えばもう終わったけど、批評空間とか浅田とか柄谷とかが、ネットでただで発言するのが、ちょっとイケテルってことで、それまねして識者がネットで書くようになる。その時は「インターネット」がイケテル感覚。けれど、今、「インターネット」って言説、僕は村井さんに、ネットのこと教わったのでわるいけど、「インターネット」ってタイトルの書はイケテナイよね、でもまだ識者達はネットで書いてるよねー、それは今度は「ブログ」がイケテルという感覚。それからブログを皆でかこうという、「オープンソース」がイケテルになり、wikiとかはてなとか、ITのニュースサイトで語られっぱなしだよね、そういうこと知らない?今もいわゆるオープンソースがイケテルって意味で識者はただで書いてるねー。つまり情報をただで公開して、情報があらたな情報に接続していくって、これってオートポエーシスだよねー。オートポイエーシス的自己言及なんかないという、芹沢氏はただで書いてるよねー。それはオートポエーシスの一要素になってることだよねー、でシステム論批判してるけど、オートポイエーシスってもともとは生物学の概念だけれども、それを広めたのはルーマンのシステム論だよねー。これこそ矛盾だよねー。

沖縄の話ね、例えば、「何もなくて豊かな・・」くらいから、沖縄移住、離島移住、沖縄本が爆発的に出版されて、それで沖縄の土着文化、おまけにもうお決まりの沖縄は搾取されてる本とかめちゃくちゃ出版されてるよねー、でもね、僕が「てーげー」持ち込んだ頃は沖縄ブームなんてなかったの。実際てーげーなんて言葉誰もしらなかったしね。NHK大河ドラマがあって、それからまた沖縄は忘れ去られていたのね、僕がはやらせたとは言わないけど、沖縄がブームになるシステム創発の一構成要素であったのは確かだよねー、それからサミットが沖縄であって、ちゅらさんがきて、ナビの恋とか、ホテルハイビスカスとかで、もう沖縄は止まらない状態になり、名護の水族館はも話題になり、ますます、オキナワーってことになり、映画の話にもどるけど、あそこに描かれてる沖縄は内地の人の求める沖縄だからね、実際に僕はフィールドワークして、うちなんちゅうはちゅらさんとかバカにしてるね、あなね僕はテレビ持ってないのだけれど、社会の動向を常にアンテナはって観察してるのね、メディアを生み出すのに一役買っている安原さん、やすはらさんね、私しかしんないだろ的に情報くれるけど、その情報は、少しアンテナ張ってる人には知れ渡ってることで、しかも、既に古くなりつつありイケテナイから。僕がてーげーはもういけてないというのは、サーチエンジンでてーげーを調べてごらん、あの数の人が言ってるからイケテナイのだけれども、それをイケテルというか、ださかっこいい、こともなくもないかもで、未だに使ってるのは、だれも言っていないてーげーを書いてるからなの。安原さん、教えてあげる的上から目線は普通に人には通用するかもだけど、僕につかうと赤っ恥かく対象になりかねないから気をつけようね。

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(無題) 投稿者:安原 投稿日: 3月17日(金)14時56分45秒   引用
>自分さん
 編集者として、だめだしされちゃったね。だめだし、はやっ(笑)。
 まあ、私一般書の編集だからね。物足りなくて当然かもね。お邪魔しました。では、これからはブログの読者として楽しませていただきますね。

 >プロの書き手というのは、メディア媒体の求めるもの、編集者さんが求められるものを何でも書けるという引き出しを一つ一つ増やしていき、そのために常にいろんなところに、アンテナ伸ばして勉強している。
 →うん、だから聞いたんだけどね。ただの媒体には載せないかなあと思って。で、沖縄の宗教のって書いてるけど、そういう持ち込みは今すごく多いの。けっこうライターさんでも移住とかしちゃってる人多いからね。

 ↓矛盾してないか?まあいいけど。
 >最初に求められるものは何でも書きますと言いましたが、それはプロの書き手として当然なことなわけです。

 ではでは、お疲れさまでした。

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なんかまだ単純ですね 投稿者:芹沢一也 投稿日: 3月17日(金)14時26分40秒   引用
たびたびすみません。読み直したらあまりに単純すぎて。
ちなみにあっさり主体と書きましたが、ぼくは主体を発話可能性の集合、あるいは言表の可能態としてとらえています(だから、主体もあるステータスに「記述」されるわけです)。ですので、とうぜん、主体も分割可能な複数態です(役割の複数性ではなく)。つまり、社会的に矛盾したステータス(これはそのステータスが要求する社会的発言が相互に矛盾するということです)に同時に属することができます。ちなみに、卑近な例だと大隈重信なんかはそうだったですね(笑)まあ、社会道徳的なプレッシャーが低い場合ですが。

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補足します 投稿者:芹沢一也 投稿日: 3月17日(金)13時11分12秒   引用
話を単純化しすぎたので、ちょっとだけ補足させてください。
対象も主体も命題も、社会的に分散した、それぞれが異なったステータスに記述される、と書きましたが、もちろんそのような場では矛盾した対象群や主体群が並列することもあるし(たとえば、意見の異なる精神科医と刑法学者が保安処分研究会などで同席したりです)、またある対象をめぐって語る主体の位置を占めにくる、複数の主体群においてもそれらを結びつける既存の制度的な枠組みなしで、ひとつの社会的効果を生み出すこともできる(まあ、シンポジウムなんかを念頭においてください)。語る主体であれ、命題群であれ、あるいは対象であれ、それらを相互に関連させる(あるいは、対立させる)関係性の連合ないし分離こそが重要だと思うのです、というお話でした。

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すみません 投稿者:芹沢一也 投稿日: 3月17日(金)12時41分11秒   引用
途中で送信してしまった。話を単純化します。
要するに、「対象」「主体」「命題」というのは、ある関係性のなかで同時に構成されるものだけど、対象も主体も命題も社会的に分散した、それぞれが異なったステータスをもつシステムのなかに記述される。で、語る主体に関して言えば(ここが問題になっていると思うので)、それぞれの命題が異なった場所に、語る主体のための複数の主体の位置を作り上げていくわけです。もちろん、そのような主体の位置は学会だとか、作家という職業だとか、さまざまな社会制度に担保されてますが、ここは省略します。で、たとえば、「ニート」についてある命題群が社会的に機能し始めれば、そこに用意された複数の主体の位置を、教育学者や社会学者、あるいは政治家や評論家、文部科学省の官僚、などなどが占めにやってくるわけです。そのようななかに『ニートっていうな!』の著者たちもいるわけですよね。
で、「自分」さんが「ニート」をめぐる現在の語りが前提としている区別に、メタ区別を接続させるというとき、あるいはそのような区別の恣意性を指摘しようとするとき、一体、どのレベルで、どのような介入をしようとしているのかがよく分からない。つまり、すべての語る主体を追いかけて、その区別のメタ区別を接続していくということですか?ぼくが重要だと思うのは区別の問題よりも、複数の主体の位置を社会的につくりだしている関係性のあり方だと思う。

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いや、そういうことを言いたいんではなく。 投稿者:芹沢一也 投稿日: 3月17日(金)12時19分47秒   引用
acidさん、「自分」さん、こんにちは。いやそういうことを言いたいんではなくて。しかし、「自分」さん、人を終らせるのが好きですね。まあ対話をしてみましょうよ。
そうですね、たとえばひとつの命題があるとしますよね。なんでもいいです。対象の本質を規定しておいて(対象を構成しておいて)、そこから何らかの処遇などを導こうとする、ひとつの命題があるとします。で、ぼくのいいたいことはこの命題は、社会的な影響力の異なるいくつかのステータスのなかに分散して記述される、あるいはそこで発話されるということです。具体的に言えば、同じ命題を評論家がいうか、あるいは精神科医がいうか、あるいは教育学者がいうかによって、あるいは同じ精神科医でも、彼が教授であるか、あるいはたんなる町医者であるかによって、その命題の社会的機能はまったく違うわけです。つまり、ある命題が成立させている区別の恣意性を指摘したとして、結局はそのメタ命題が記述される=発話されるステータスという、物質的=社会的基盤があり、それがもつ社会的効力の問題があるわけです。あるいは、同じ本質規定のもとでも、おっしゃるように複数の命題が乱立するわけですが、その複数の命題もそれが記述=発話されるステータスによって、異なった社会的効力をもつわけです。あるいは、同じひとつの名称をめぐっても、異なった本質規定のもと異なった命題が乱立することもある。というか、これが通常の状態ですよね。しかしながら、異なった本質規定による数多の命題が、同じひとつの名称によって束ねられて、あるいはひとつステータスによる拘束のもとに束ねられて、ひとつの対象を強化することもあれば、異なった対象を生み出すこともある。つまり、「区別」による観察の連鎖などという単純な仕組みで、

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ああ思い出した 投稿者:自分 投稿日: 3月17日(金)07時04分47秒   引用
 最近、○○/××の区別で・・・ってネットの議論空間とかで見れるけど、あれ全部、社会学的作法Blogからのながれね、それまでやってる人はいなかったから。ルーマンは著書で主張してるけど、それをドイツで議論形式として使ってたかはしんない。

そんなことより、芹沢さん、自分だって区別の話にどっかで便乗してたじゃん。露あんさんだっけ、あっこの人、社会学的作法読んでるなって思ってたけど、てーげーリアンくんだったんだね。

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おまけ 投稿者:自分 投稿日: 3月17日(金)05時37分45秒   引用
因みにこれも歴史学の基礎教養だけれども、階層分化から機能分化というのは常識だからね。かりに社会が勝ち組と負け組みに二極化していたら、その社会は端的に中世のヨーロッパ的状態にもどり、それはアノミーからの開放というすばらし社会になるだろうよ。

中世のヨーロッパは教会を中心に口承文化なのね。それが二極化という階層化に機能するのだけど、つまり当時の民衆はキリスト教的世界観にいたのだけれど、聖書は読めない。西方はラテン語、東方はギリシア語で聖書は記させており、聖職者と一部の上層階級のみがラテン語リテラシーがあり、だから民衆は教会へと赴き、聖職者にキリスト教の教えを口承でもって伝達してもらう必要があったわけ。この時代は明確に、聖職者と一般民衆の間には明確に断絶があり、けれどその断絶が二極という単純な社会構造を維持し、アノミーに陥ることなく、民衆は価値的共有感覚で紐帯は崩れることはなかった。それから上層階級、民衆のあいだ、得に民衆が上層階級に敵視することもない。決定的な断絶があるというのはそういうこと。だから、近代の感覚で差別化とか変な視点で捉えないように、民衆は民衆の世界が自分達の全世界として当たり前のように暮らしていた。例えば、少し飛躍してしまうが、カーストを差別の制度と見るのはヨーロッパ的、アングロサクソン的視点でみたものだから、彼らには、ホワイト/ブラックという区別と対立の歴史を経験しているから、けれどインドのカーストは最近はヨーロッパ的価値が入り、様相が変わってきている傾向もあるようだか、ですが歴史的には、インドのカーストは自己の属性を当たり前として、その属性の中で生きて、死んでいくのが自明だったわけですね。

かりに、現代社会が二極化しているならば、社会構造が非常に単純なものになるわけだから、共同体の復活があるでしょうね。一部の勝ち組のエリートと大部分の負け組みという共同体。

けれど実情は階層化を問題視していますよね。それは正に社会構造がヨーロッパ中世のような単純な様相ではないことを示しているわけです。つまり、階層化なんてしてないけれども、それをかたられているのは皆、経済システムのみを想定しており、ですが全体社会システムは経済システムではないから、経済システムは法、医療、教育、芸術、学、宗教システムといった、機能分化したシステムの一つに過ぎなく、さらに諸システム内でも下位システムという分化がある、様相は全く単純ではないから、二極化なんかなってないけど、二極化が問題視されているわけだよね。

わかりますよね、階層分化から機能分化へという流れを、いうまでもないが、芹沢氏はそんなことさえ判っていなく、ほんとこれって基礎の基礎だからね、鬱な掲示板ダイジェストで残ってるから、もう5,6前に説明していたことを芹沢氏は知らない。つまりは5,6年前の未熟な私の学問的レベルにも芹沢氏は達していないということ。やはり、引き出しは少年問題だけでした。

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追記 投稿者:自分 投稿日: 3月17日(金)04時25分35秒   引用
誤解されないように。芹沢氏はアカデミックでは無知だけれども、それが無能な人ということを意味することではないから。別に学問できるから人間的に偉いとか偉くないとか、これも何度も云ってきたからお判りだと思いますが、芹沢氏が傷つかないために。

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>安原さん 投稿者:自分 投稿日: 3月17日(金)03時59分12秒   引用
  安原さんの求めていたことは承知済みでございました。私の恩師は執筆業をしており、その関係で、その道の伝説的な編集者さんとも呑む機会もあり、ライターの中森さんからもいろいろ話をして影響を受けたのですが、私が考える書き手のスタンスは全て恩師から学んだものなのですね。なぜ安原さんにこんなことは容易であるが具体的なテーマを提示したメールをしなかったかといいますと、今回はあなたからお声をおかけ頂いたわけですが、しかし少し私が書いたものを読んで、「何が書きたい?」というのは、もうあり得なく、且つ編集者としての役割を放棄しているわけですね。プロの書き手というのは、メディア媒体の求めるもの、編集者さんが求められるものを何でも書けるという引き出しを一つ一つ増やしていき、そのために常にいろんなところに、アンテナ伸ばして勉強している。最初に求められるものは何でも書きますと言いましたが、それはプロの書き手として当然なことなわけです。そして編集者として仕事を私に依頼するとするならば、私の書いたものを読み、こいつには何を書かせると面白いものができる企画を持ち込む、そして書き手のいい所を引き出すのが編集者の仕事であり、その意味で一つ私のテクストを読んで「何が書きたい?」というのがあり得ないと言ったわけですね。恩師にはプロの方々と会わせてくれる機会を頂本当に感謝してるのですが、少なくとも私がお会いしてお話をした一流の編集者の方は上記したことを実践しておりましたね。けれど、恩師からよく愚痴られていたのですが、著作も読まずにやってきて、書きたいものをどうぞお書きくださいという編集者あまりに多いと。実際、恩師はそんな編集者と仕事もしないし、二度と会わない。恩師の著作は非常に多いのですが、すべての著作は持ち込まれた企画を編集者と対話する中で面白いかな思い、引き受けたものなんですね。それと恩師に常に云われていたことは、デビューなんて、いつでもできるから、それよりも書き続けることが大切なんだと。そのために、引き出しをたくさん創っておかなければならないと。一発屋で消えていく文士は山といるでしょ。それは引き出しのストックがないから。ちなみに、芹沢氏にお答えしなかったのは、全て回答済みのことであり、言語感覚から、この人、例えばアカデミズムの基礎教養さえ乏しいというのが判るのですね。例えば、観察の形式はルーマンのものを私がデフォルメして使っているのですが、独創性がないなんて、私がオリジンでないから、ルーマンであり、そんなこと生前の彼に言ったとしたら、泣いちゃうくらいにけちょんけちょんにされてしまうだろうなという感想。このブログでよく言うのですが、背伸びしても能力は文章読めば判るから、理論的スタンスを理解しましただなんて、ルーマンのいってることだとさえ知らなかった。階層化の議論にしても、私が学生の皆さんに向けたテクスト読んで、お勉強してみればよいのです。階層化という言説も最近やたらと言われるようになったものと判るでしょうよ。そしてその意味されてるのは、二極化ということですよ。それは、勝ち組、負け組みという言説が蔓延する中で、それを違う形でシンボリックに表現するために使われるようになったわけです。話をアカデミックに戻して、社会学の概念で「社会階層」というものがありますが、それさえ理解されていない。要は富や財といったものの差異によって序列づけられるものを指しますが、これは識者さえも気がついていないけど、機能分化したその内の一つの経済システムの話であり、けれど資本主義というゼマンティクを全体社会システムと勘違いしている、芹沢氏の階層格差も経済システムをまるで全体社会システムと捉えている無知、それから機能分化なんて、基礎教養だけれども、横並びなんかじゃないから。機能分化した諸機能システムの階層分化なんて、ほんと大学で教えているのかな、という感じ。あと終わってるのは、古臭い存在論ですね。認識と対象が一致すると思っている。社会を外から俯瞰できるなら、いまここで、俯瞰したものを言語化してごらんなさい、できないよねってとこ。いくらでも芹沢氏にも終わっているビームを浴びせることが可能です。でも僕、一般人を相手にすること終焉宣言しており、アカデミズムに属していない私があえて、あなたの土俵で議論しても一般人的レベルだから。それとこれも何度もくりかえし、一般の方に云ってきたのだけれど、例えば独創性がないとか、そうは考えられませんとか、感想文を書くのではなくてね、それを云うなら明確な根拠しめさなきゃ、やっぱ、あんただめですよということになるし、このブログでは、散々そういってきたから、今ご覧になってる方々も芹沢氏は終わってるなという考えではないでしょうか。お答え済みのことを再び一般的レベルの芹沢氏にテキストを書くのは端的に時間があまりにももったいない。お会いして議論するとかだと楽だけど、かなり自尊心が傷つき、へこむと思いますよ。これまで、もう7,8ねん論争生活してきたから、つめ将棋のように次にいうこと予測できるのね、このブログを読まれている人はコアな方ばかりだから見てきていますが、僕は論争に負けたことが無いの。少年法に関して、よく勉強してるなと思ったけど、引き出しは少なかったという印象でございました。長くなり申し訳ない

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acidさま 投稿者:安原 投稿日: 3月17日(金)00時56分12秒   引用
 こんにちは。いってること、ふむふむって思いますよ。
 例えば、宮台さんは 「脱社会的存在」/「反社会的存在」という区別作って、「脱社会的存在」という、現実には、ありもしないコミュニケーションツール(マスコミが大騒ぎするね)を作り出しちゃったよね。あきらかに青少年バッシングのコミュニケーションツールのひとつになったわけですよ。
 それをね私は分析として「失敗でない」とは、言えない、スタンスです。つまり、彼が「書かなかった」ことを、これからは見ないといけないのかなあと思います
 露あんさんが後藤さんのブログでこう書かれてますね。
 >第一次観察である(被害者/加害者)という区別は、様々な立場から別の区別で二次観察にさらされ、国家の観察を経て一つの政策となり、はじめて権力による拘束性が生じてきます。

 そのとおりだと思いますよ。その「国家の観察」(上でいうところの、概念としては宮台さんの観察と同じね)は、ではどう行なわれて、どういう力学が働いたのか、という観察と記述が必要なんじゃないかなと思います。
 そこを書いて欲しいなあと思うわけです。書き手にはね。
 もちろん、宮台さん自身はいっしょにお仕事をさせていただいたこともあるし、その卓越度にはすごく敬意を払っております。

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芹沢様 投稿者:acid 投稿日: 3月16日(木)23時18分41秒   引用
はじめまして。acidと申します。
横からコメント、すみません。
私の理解した範囲で、下の投稿にコメントさせていただきます(全然わかってねーよ!!というほかの方の言葉も少々期待しつつ…)

「システムの内容を問うても実りはない」について、「観察にも階層格差がある」とおっしゃっています。
階層格差、という言葉を私は知りませんが(すみません…)、文脈からいって、「的確さ、深さ、影響力etcのレベル」のようなことでしょうか?
だとすれば、それはあくまでシステム内での出来事だと思われます。
たとえば、このblogであげられている例ですが、合法/合法でない、という区別を用いてなされるすべてのコミュニケーションが、「法システム」に寄与しつつ動かしている(のでそういう意味では「失敗」とかは無い)のです。

システムそのものの内容、とはむしろ「法ってそもそも何よ?」のような議論を指していて、それが不毛に陥りがちだというのは、法全体を包括して「外」から見渡すのは無理であるにもかかわらず、法を成立させている(法の外にある)「根拠」を、探すこと(ねつ造??)になってしまうし、さらに、その「法を成立させているもの」はどこから来てるのさ?と、無限にさかのぼることも可能だからです。
ですので、「じゃあ、法システムって何だ?」と問われても、かなり不毛だ、ということです。(と私なりに読みました)

また、区別は、システム内においてなされるのみでなく、そもそもシステム自体区別に基づいているわけなので、システムを「創発する」こともできるのです…

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(無題) 投稿者:安原 投稿日: 3月16日(木)22時25分5秒   引用
 おやまあ。お疲れさまです。ふむ。

 編集の世界でいうところの本を作る際の「切り口」を例えにいいますね。大きく言うと3つあります「どういう内容の切り口なのか」「誰がいうか」「誰がどういう内容の切り口でいうのか」という3パターンありますね。
これによって世間的に見れば本の価値観は違うよね(いいか、悪いか別として)。
 で、それが、違う世界になったときに(例えば、政治の舞台を思い浮かべてね)その「誰がいうのか」(どういう力が働いてというのが)がすごく重要ですね。つまり「重さ」があるわけです。

 さて、最初、後藤さんのブログに書き込んだときは、露庵さんが後藤さんのブログでは語られていない「被害者/加害者」の軸を使って、ちゃんと説明しようとしていたので、応援させていただきました。
 露庵さんが私のブログへ書いてくれたコメント見る限りは、とても緻密に誠実に記述されていたので、その師匠さん?「自分」さんは、観察対象をどのように記述されるのだろうなあ?と興味をもったわけです。
 で、私が本にする手伝いをしてあげられる「カテゴリー」については、私のような一般ピープルがいうろところの「具体的な観察対象」が必要なんで(というか私がそれしかできないからね)、というお話ね。例えば「少年犯罪」、「ニート」とか。もちろん「理論」に興味をもつ編集者もたくさんいると思います。
  「自分さん」、おもしろいことは書いてると思うので、まま、たまにのぞかせてもらいます。

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(無題) 投稿者:芹沢一也 投稿日: 3月16日(木)17時00分55秒   引用
こんにちは、「自分」さん。認識論のひとつの立場としては理解できます(とはいえ、正直、どこが独創的なのかは分かりません)。ただ、「僕がシステムの内容を問うても実りはないというのは、不毛で違った観察の乱立になるだけだから」については理解できません。観察にも階層格差があるはずだし、数多の観察が横並びで乱立することは考えられません。そこには効果をもつ観察と、そうではない観察が、これも数多のレベルで分化するはずです。

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もりあがってますね 投稿者:自分 投稿日: 3月16日(木)15時57分1秒   引用
安原さんこんにちは。
>区別してはずしまくるという思考収斂ってことかな?
ぜんぜん違います。
芹沢さんも安原さんも、理論的なお話はお嫌いなようで、ふつうに云いたいことなんて、書いてるままです。単純化して「近代にはてーげーがおすすめ」なんて云ったとしても、通じないでしょうよ。主張は芹沢さんは見つけられないらしいけど、具体的に書いてるから。けれども短に主張をしても、ああそういうも観察できるね。で終わってしますから、識者はみなそれぞれ、社会を自分の視点で観察して終わっているでしょ。けれど、機能分化して、混沌とした全体社会をどうやって、外から俯瞰するように観察できるのでしょう?社会内的存在がどうして、日本が壊れてるとか神の如く全てを見渡したように云えるのでしょうか?僕がシステムの内容を問うても実りはないというのは、不毛で違った観察の乱立になるだけだから。けれど、観察は区別に基づいており、それは境界を引いて、空間を分割し、一方を指し示した側が、システムであり、僕らはその指し示した側しかみることができない。それをあたかも、識者は自分の観察が真理を語っているが如く、信じきっていて、もう一方の側が見えていないということが見えていないのね。それをメタな視点から他者がこいつは如何なる区別をして、発言しているのかを見抜き、発言者の見えていない側、を指摘することで、観察はよりメタなレベルに移行できるのね、けれども、またメタな観察をした自分も、他者を観察している点で見えていない項があるわけ、それをまた違う他者が観察していく、これがコミュニケーションの連鎖ってこと。この形式を具体的な事象に当てはめて、いろんな事象を観察できるよってこと。神秘主義や宗教について書いてるし、だいたい具体的に何を考察してるの?って、考察が学問ではないしね、僕の書いているものアカデミズムでは全く顧みられないでしょうよ。理論をてーげーってパロディッテ構築してるのも、至って「具体的」に抽象的な「考察」でしょってこと。わかたかな?

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(無題) 投稿者:安原 投稿日: 3月16日(木)12時03分3秒   引用
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2006/02/post_e7cf.html#c6826974

>芹沢さん
露庵さん、ここでねーとさんと戦ってるんで助けてあげたら。

                                                                                                                                                              • -

(無題) 投稿者:安原 投稿日: 3月16日(木)11時56分42秒   引用
 安原です。おはよ。秘密基地だったのね。すいません、お邪魔しまーす。ブログはなんとなく読んだ。区別してはずしまくるという思考収斂ってことかな?
 お姉さん、そもさんせっぱ論に弱いんでさ、私を小学生だと思って、ふつうに言いたいこと聞きたいんだけど。

                                                                                                                                                              • -

(無題) 投稿者:芹沢一也 投稿日: 3月16日(木)11時42分50秒   引用
なるほど、こんなところに秘密基地が(笑)
露庵さん、「自分」さん世に出す計画、協力するよ。だから、具体的に何ができるか聞いてるんじゃない。なんなら、「ニートって言え!」という本でも作ってみる?それとも、「てーげー革命宣言」でいく?

                                                                                                                                                              • -

(無題) 投稿者:安原 投稿日: 3月16日(木)12時03分3秒   引用
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2006/02/post_e7cf.html#c6826974

>芹沢さん
露庵さん、ここでねーとさんと戦ってるんで助けてあげたら。

                                                                                                                                                              • -

(無題) 投稿者:安原 投稿日: 3月16日(木)11時56分42秒   引用
 安原です。おはよ。秘密基地だったのね。すいません、お邪魔しまーす。ブログはなんとなく読んだ。区別してはずしまくるという思考収斂ってことかな?
 お姉さん、そもさんせっぱ論に弱いんでさ、私を小学生だと思って、ふつうに言いたいこと聞きたいんだけど。

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(無題) 投稿者:芹沢一也 投稿日: 3月16日(木)11時42分50秒   引用
なるほど、こんなところに秘密基地が(笑)
露庵さん、「自分」さん世に出す計画、協力するよ。だから、具体的に何ができるか聞いてるんじゃない。なんなら、「ニートって言え!」という本でも作ってみる?それとも、「てーげー革命宣言」でいく?

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訂正 投稿者:てーげーリアン(ファン) 投稿日: 3月16日(木)07時12分52秒   引用
「なぜなら、コミュニケーションの受信者と送信者は、常に意味が断絶しており、その断絶を埋めるべく、記号(てーげー)をトリガーとしてコミュニケーションが連接していくからです。」と訂正します。

 ところで、ねーとさんに対する返信も書こうと思います。少し疲れています。

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てーげーについて 投稿者:てーげーリアン(ファン) 投稿日: 3月16日(木)07時07分24秒   引用
 いやはや こんなところにあらわれるとは思っていませんでした。我々てーげーリアンの秘密基地だったのですが。
 てーげーについては、「いい加減」や「適当」という意味がありますが、そのような意味を追求しても実りがありません。なぜなら、コミュニケーションの受信者と送信者は、常に意味が断絶しており、その断絶を埋めるべく、記号(てーげー)をトリガーとしてコミュニケーションが連接していきます。その過程において、てーげーは様々な立場による区別から観察を受け、それぞれのてーげーが心的システムに生じ、成熟社会におけるてーげーな解脱が可能になります。てーげー革命によって、このような自由な区別の投入の訓練をもたらし、あらゆる社会からの疎外的レッテルを張られようとも、いかなる人から非難の言説を受けようとも、自尊心は壊れることがなくなります。団塊世代の固い自我、成熟社会の一部の脆弱な自我や解離的な自我とは異なる、てーげーな自我となり、てーげーリックな至福=甘美なるものに至ります。
 てーげーとは「何か」という実体的な問いかけは、てーげー革命に於いては、かえってコミュニケーションを頓挫させる要因になります。自分さんの場合、普通の人では耐えれないような社会的かつ実存的苦しみを、このてーげーによって生き抜いてきたと言えるでしょう。

 かようなてーげー理論は、自分さんが社会学的作法で説いておられます。私の解説もこれまた私のてーげーな観察にしかすぎないので、詳しくは社会学的作法での確認をお勧めします。

 自分さんはフリーライターの仕事を請負うと書いていますので、色々と依頼できると思います。文芸もできるので、小説も書けます。

 我々てーげーリアンからすると、理論的な書き物を期待したいです。しかし、色々と仕事を請負うというのだから、依頼してみてはと思います。

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君が露庵さんだね。 投稿者:安原 投稿日: 3月16日(木)04時43分55秒   引用
こんばんは。君が露庵さんだね。苦戦してたね。安原です。あっでも、かなり賢いなあーと思っておりました。企画書で根詰めていたので、自分でも不思議なコメントしておりました。すいません。
 いろいろ大変なんだね。
 てーげーって「たいがい」っていう意味? だから、どういう本書きたいの?

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てーげー戦線異常あり 投稿者:てーげーリアン(軍師) 投稿日: 3月15日(水)21時14分13秒   引用
 色々と「てーげーニズム活動」をしていますが、安原女史のブログに入り、好き勝手な区別からコメントをしまくっていました。すみません。
 現在、別のブログでネート氏からの攻撃を受け、少し苦戦しています。とほほです。
 今回、でしゃばりましたが、本音のところは、自分さんが安原さんの協力を借りて、何か書物を世に出せないかと思っていた次第なのです。
 てーげーリアン( )の( )の中には、どのような区別で発言しているのか、常に観察コードを入れています。

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