自意識が肥大化しすぎて議論において決して「参りました」しない奴を無害化する方法

 http://d.hatena.ne.jp/punksid1979/20060321/1142926941
 ここに書いているのを参考にしてくれ。案外多いのね、こういうお方。大抵、年上で自分のほうが俺よりも偉いんだと思っていて、がきに負けを認めるのを許せないをお方。

 そういう奴が登場してきたら、まずその方を論破するこをは忘れろ。時間をかければ、論破できるがその労力とコストとが見合わないから。

 それよりも、例えばネットにおける議論では沢山の方が、議論の動向を見ているわけね。そのことを云っちゃだめよ、まだ。とりあえず議論をあおれ、相手を怒らせろ。けれど、相手は怒ってる仕草を見せないけどね。相手は感想文をぶつけてくるのがほとんどだから。「そうは思わない」といっておき、それでお終い。論証なしとかね。あと、言い切り方ね。「〜は〜である。〜は〜ということである。」この手のテクストに騙される方は、めちゃめちゃ多い。認知科学の分野では、宣言的知識というのだけれども、例えば「これは椅子である」とかさ、「これはテレビである」とかよ、それぞれ椅子とテレビを指して云っているには、まあ議論でも問題は起こらないよな。けれども、共有できないような知識を宣言的知識としてしまってる奴が多いわけよ。例えば「戦争はいけないことである」とか「人殺しは悪である」とか、一見、それは正しいように思われるけど、少し考えればいくらでも反証すること可能だよなー。これを見ない奴が多く、簡単に馬鹿な識者の物言いに騙される奴らが多いわけよ、おめえ達、議論する相手の宣言的知識、議論を接続させていくのに十分な妥当性があるか、常に目を光らせておけよ。「〜は〜である」と言い切られる。しかも、そいつは学者や識者だったりすると、一般人は盲目的にその根拠を示唆することさえない、言い切りに迷走させられることになるわけ。この手の宣言的知識、言い切りがでてきたら、それは、あんたの価値観でしかないということをついていけ。

 もう一つ、手続き的知識と云われるものがあってな、端的に云えばノウハウのことだな。例えば、「これはテレビである」と宣言的知識がでてくる。そうすると「テレビを見るには、まず主電源をオンにして、それからリモコンでちゃんねるを選択する」みたいなようなこと。一般に専門家と呼ばれるのは、この手続き的知識に長けてる人をいうわけよ。そんでもって、テクストというのは、単純化してここでは云うが、この二つの知識をバランスよく配分されているものが、説得力を保持するわけよ。

 けれど、宣言ばかりして、手続きには触れないとう奴がめちゃめちゃ多いわけな。そういうのを俺は「感想文」というの。後藤氏のおこちゃまテクストは全てこの手のもの。自己の意見とは、相いれない主張をどこぞやら探してきて、それは違う、そこは間違っている、ともう、不毛な突っ込みを限りなく入れている、そんなことやってて何になるの?って思うのだが、コメントしてる愉快な仲間達も後藤の世界に知らず知らずはまってしまっている、おばかさんたち。

 で、何、云おうとしてたんだっけか?ああ、絶対納得しない奴を無害化するのね、だから、そういう奴は宣言的知識ばかりなわけ、議論するために共有できないものとしてのな。それはおめえの価値観でしょということを、ついていくわけね。そうすると、必ずこれも長年の議論してきて、お決まりのパターンに必ず治まるから。まず、だんだんと人格攻撃がでてくる。「おまえはだめだ」とか「もっと勉強しろ」とかね、これがでてきたら「終焉」はすぐそこ。それでも、宣言、言い切りの根拠のなさをついていくと、最後に大きな、それは醜い、罵詈雑言的おならをひって、消えてしまうことになる。そこで、「この議論をご覧になっている、モニターの向こう側の方のあなたは、この議論をどう思うでしょうか?」これを云うことで、困ったさんも、モニターの向こうで何となく見物している奴らにも、印象的変容が生じるから、必ずね。

 これで無害化完了なわけ。つまり論理的説得をいくらしても、言い切りの感想文ばかりだしてくる者、そいつ自体を無害化するのではなく、そいつの醜態を多くの見物人がいるから、ネットでも対面的な議論においても、その見物人に醜態を曝すことで、このこまったさんは無害化されるわけね。ベムの場合もそうだけど、多くの方はそれまでのベムに対する認識が変容しただろうよ。それからさー、これはかなりの高確率で起こることな。消え去った、こまったさんな、ネットで議論していた、その人。名前を変えて再び現れて、自己の主張の正しさを吹聴し、例えば俺と議論していたならば、俺への罵詈雑言を再び云って消えていくから。でも、もう無害化されちゃってるから、そこで再びとりあげて、あんたってのは判るよなんて云うのは野暮だよな。消える兆候が現れた時に、再び現れるんだよと教えてあげると現れないから、まあ好きに無害化してくれや。

 あのさ実はもう一つのパターンの困ったさんがいて、そのお方は単純に、こんな若造が考えていることなんて、下らないことに違いないと信じきってしまっている人。たまにいるわけこういう人。お前らも経験ないか?どれだけ説明しても、主張の価値を認める云々以前に、お話にならない的にあしらう奴。だが同じような内容のことを違う人物、大抵は一目おかれているような奴が云うと、「はい、全くその通りでございます」なんてな、簡単に同意しちゃう馬鹿。「それって僕の云ってたことと同じじゃ〜ん」と云っても、空っ風が吹きぬけるのみ。要はこういうお方って主張の内容を理解できないから、人を見てその主張に判断を下しちゃう。この困ったさんにはな外部根拠を意図的に示すわけ。例えば「ハイデガーという人がこう云ってるのだけど〜」って、それで自分の主張に権威づけをして、おいら少なからず知識を保有してますよってことも同時に示すわけ。議論や主張とは関係なしに、「ハイデガーフッサールの弟子で後にフライブルク大学の学長になるのですが、ナチに加担することになり、フッサールユダヤ系であったために、フッサールと袂をわかつことになるのですが〜」みたいに、全く関係のないうんちくを導入にして、その後に自己の主張を云う。こういう人は権威に弱いの、だがら権威的な外部根拠を示すことで、あと自分にはその権威の知識をしまってある引き出しがあるんだということを示唆することで、すんなり納得するから。ほんと今までの論理的説得の努力は何だったのかと思うくらいに論理なんか皆無でもって外部の権威に、ゴロニャーンってことになるからよ。

 いやー皆さん、人間の醜悪ってほんっと面白いですね、さよならー

ブログランキングに参加中。推薦クリックお頼み申す
人気blogランキング