第三回『近代の観察』読書会

 前回、前々回の読書会を再読してみると、あやまった理解を招く恐れがある説明を見受けられました。ですが私の解釈は読者の方の解釈によって再構成されるべきものなので、修正はしません。その辺りはてーげーで。実は私は近代の観察にはそれほど知的関心を抱いていないのでして、それに、やはりこの書は初学者にはかなりきつい解読作業になるでしょうね。ですから内心はさっさと読み飛ばして他の著書の読書会をしたいと思わないこともない。モチベーションを挫くようなことを云って申し訳ない。”私は”あまり好みではないが、近代の観察はもちろん、ルーマンの理論に関心がある方には必読であることは間違いありません。それでは、始めます。

 

 第三回目、P31、第二章近代の合理性のはじめからです。この節は普通に読み通せるのではないでしょうか。一応、簡単な解釈をしてみましょう。最初の「世界社会」は以前にも触れましたが、システムも環境も、その差異も全て包含する、あらゆる出来事が生じる可能性のある極めて複雑性に富み、抽象度の高い社会のこと。

 伝統的社会システムの合理性は、階層化という「中心」的な概念でもって説明できた。上層階級の者は下層階級の者を観察できたし、またその逆もしかり。互いに可視的なのだから、合理性が要請する一貫性は成立することができた。

 近代性の特徴は、システムの分化である。機能システムは、例えば法システムなら法をメディアに、政治システムは権力、学システムほ真理、といった固有のメディアに基づいて区別を設け、それぞれのシステム独自の観察を行っている。ここでの観察者は自己の観察を相対化、あるいは観察することができない。区別によって立ち現れたシステムは、ある意味、区別で指し示されなかったものを排除しているため。したがってシステムは指し示したものだけを、見ることができるものだけを見ることができる、ということになる。

 それぞれの分化したシステムは独自の二分コードにより作動しているために、それらの観察は機能システム独自の観察となることは避けられない。この思考作法は近代社会における、絶対的な或いは中心的な記述根拠に異議を唱えることになる。クニーニの言葉を借用すれば、「中心的」な世界概念が「多中心的」な世界概念へと移行するのは疑いの余地のないものとなる。

 少し論を発展しすぎたかも知れぬが、「近代の合理性」を取り扱う場合、このシステム論の基本的視座を頭においておくと理解しやすい。

 第二段落に入ります。ここでは二極化、即ちポストモダン的な近代の把握とユートピア的なそれとを提示している。前者はシステム論的であり、後者は恐らくルーマンがしばしば批判するハーバーマスを想定しているのではないか。つまり共同主観的な合議において社会は統合されうるといった類の議論。

 第三段落目。ここではヨーロッパの合理性は独自の区別によって確認されうると主張。その例として二つ挙げられている点に注意。目的合理性も価値合理性もウェーバーの文脈で把握してよい。

 この節の結論に近づくにつれ、私が最初に提示した区別によって近代の合理性は扱われるという主張が想起されるのではないか。

 「世界に関するヨーロッパのゼマンティクが他のそれに対して持つ違いは、区別を意 識した合理性というこの点からのみ観察・記述されうる」引用。第三段落L8

 複雑性に満ちた近代社会はその全体を中心となって表象できるような根拠、価値、規範等をそれこそ伝統的なものと位置づける。全体社会を俯瞰することは不可能なのである。であるから近代の特性である分化したシステム、それは区別に依拠していることは云うまでも無いが、そういった部分システムからの区別による観察を作動しつづけることで、近代の合理性を区別の観点から記述できるのではないか。以上。

次回は二章の〓からです。

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