区別について、或いは道徳主義者のための啓蒙

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 先の投稿において私は善悪の区別が必要であるとする道徳主義者を馬鹿だと一喝しました。けれども、ホワイトブラザフッドと比して、未だ私とコミュニケーションが可能と云う意味において、こちら側の領域にいらっしゃる。ホワイトブラザフッドが脱社会的に馬鹿とするならば、道徳主義者の物言いは普通に社会的に馬鹿ということになります。社会的にお馬鹿な方は単に知恵をつければいいだけ。学ぶことで自己の思考法がいかに、現代に即していないかを自己内省すればすむことです。ですが、ホワイトブラザフッドは既に会話が成立し得ない境地まで旅立たれており、哀れと一笑にふせばよい。
 

 
 区別について不毛な議論がなされていたので、その区別に即して少し議論を展開してみます。私は確かに道徳主義者を批判しましたが、しかし、ある意味において、括弧つきですが、その思考はシステム論的なのです。それはシステムの創発は限定が強いられるという意味においてです。ネットなどのメディアの拡大により、我々の暮らす現代は個人が過剰な情報にされされ、既にその情報過多は個人が処理し得る限界の範囲を超えています。世界は複雑であり、複雑ということは別様でありうることを含意しており、全体社会の統一性を把握することを諦めざるを得ない。なぜなら複雑であるが故に別様でもある社会を、その社会に混在している情報から記述するための形容を拝借してきても、やはりその形容は別の形容でもって記述することもできるからである。例えば我々は現代社会を犯罪の凶悪化という情報を用いて、端的に「生きにくい社会」と記述することもできるし、或いは、現代社会を価値の多様化という情報を用いることで、個人が望むべく生き方ができるという点で、現代社会を賞賛することもできるのである。
 
 ここでやっと、区別の議論に入ることができます。それはこういうことなのです。上述した「現代社会は生きにくい」という記述も、「現代社会は生きやすい」という記述も機能的に等価なものということであり、それはつまり、両記述とも<生きにくい/生きやすい>という「区別」に基づいており、それを前提として社会記述のために一方を選択したに過ぎない。システム理論の概念では「観察」といいますが、社会を記述するための「観察」は区別を設けて、一方の側を指し示す。指し示された側があるとすれば、当然、指し示されなかった側があるわけであり、社会は生きやすい、という観察には、生きにくいという側が指し示されていないために、理論的な作法を学んでいない方には、観察をした当事者でさえマークされていないもう一方の側を意識化することは困難なのです。いわんや4000次元、遥か彼方を旅しておられるホワイトブラザフッドは一生お気づきになることはないでしょう。一切が根本原理だとかいうのは、こいつの母語は日本語なのかと勘ぐってしまうぐらい会話不成立ということになります。

 話を戻しましょう。冒頭で道徳主義者は括弧つきですがシステム論的思考をしていると述べました。それについて説明できる準備は既に整っています。同じく、冒頭でシステムは限定を強いると述べましたが、それは複雑である全体社会に対してであり、つまり、くり返しになりますが現代社会は複雑であり、そのために別様に記述されうる。全体社会の統一性を把握するのが困難な状況にあるために、社会の複雑性は縮減されることが要請されるわけです。再度、「観察」概念を想起してみてください。観察とは区別して一方を指し示すことでした。マークされた側があればマークされない側があり、それはまた不可視なもので、その側は見えないという意味で限定の機能を有することになります。そうすることで社会システムが観察され記述されることが可能となるわけです。道徳主義者は善なる価値、悪なる価値を有しており。善が善として成立するには、<善/悪>という区別がされて、一方がマークされ、また一方はマークされず不可視となる。つまり道徳主義者は<善/悪>という区別を用いて複雑性の縮減をすることで、システムを創発しているわけです。云うまでもなく、当のシステムは善悪の区別のみを前提としている点で限定的である。複雑性を限定することで創発された社会システムは、この場合、後続するコミュニケーションが接続するためには、善悪の区別のみを前提としなければならず、そういった事態のコミュニケーション形態は社会システムにおいては極めて稀なものであろうということであり、一方で、つまり社会システムの創発特性として余りにも道徳的なコミュニケーションの連関を予期しなければならないという点において、他方において、社会システムは単に観察されたものであり、限定されたシステムであるが故に高次のシステム内の秩序は、全体社会という、より複雑性に満ちたシステムと関わることは不可能なのである。即ち、機能分化した一システムが、全体社会の価値観を表象することはできない。この事実について道徳主義者は理解せず、時にあまりに非寛容的である。それを私は、馬鹿であるというわけです。

 さて、ここにある一つの帰結を見出すことができます。つまり、社会、あるいは社会システムとは、ある特定の区別を用いて一方の側を指し示すことで創発されるということであり、区別を理論的端緒とする、てーげー理論は伝統的な存在論的認識(それはあまりにもホワイトブラザフッド的なのですが)を脱構築しうるものであるということです。存在論は外的観察であり、外から全体社会を俯瞰しようとする。けれど、観察する自己は社会内的存在であり、如何にして外的俯瞰が可能となるというのであろうか。
 
 最後に、少し理論的に深いレベルへと接続が可能となる示唆を示しておきます。ここで私がてーげー理論といったのは、この文章は厳密にはルーマンの文脈にそぐわないものであるからです。ルーマンの理論まで立ち入ることはしませんが、一つだけ差異を述べておくと、ルーマンは「複雑性」に区別を設けることで、ポストモダンな社会の観察を目論んでいたかと思われます。ルーマンにとって、ポストモダンな社会においては、世界のみが複雑なのではなく、あらゆるもの例えば、システムを構成する要素一つさえもが既に複雑なのである。複雑とは別様である可能性である。ここで、再度、この命題に立ち返るならば、新たに、このような帰結が導かれうるであろう。つまり別様でありうるシステムの何たるかを問うことは理論的に大きな意味を持たないということである。なぜなら区別してシステムを指し示しても、別様の区別が、あるいは別様のマークが可能性として存在しているからである。即ち、社会システムとは区別により一方を指し示すことで観察されたものであり、ならばシステムとは如何なる区別によって、或いはいかなるマークによって区別されたものを区別するかという差異理論的アプローチ要請されることになる。システムは自ら区別することで区別の内に自己記述する。換言するとシステムとは閉鎖的で自己言及的に作動するということである。

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