ああ君という奴は・・

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 コメント読み直して、いやー、わりー、わりー。あれ書いた時はさ、かなり精神が錯乱してたからさ。狂ってるな。全くあんなコメント書いたこと覚えてねーんだよ。
 
 さて少し襟を正してeculusくんにお答えします。

 eculusくんは固有値について何か誤解されておるようで、システムの作動が接続可能となる単なる端緒を固有値といい、それは閉じているとか、或いは学システムに対して劣っているものだとか、理論の確立とか何ら関係するものではない。

>てーげー理論はシステム理論の様に、既に<システム/環境>の区別の様なものによって指示された何らかの状態(=システム)を対象とするのでしょうか

 あなたは、現在、頓挫した状態ですが、近代の観察の読書会のテクストを読んでいただけたことを正に「固有値」としてお話しますが、そうすると私が、お馬鹿さんと慕ってやまないホワイトブラザフッドの知的レベルと云わざるを得ない。

 最近の投稿においてもシステムが何であるか問うことは不毛であり、如何なる区別がされたのか、或いは、誰によって区別されたのかを問え!とさんざんと書いているではないですか。それでも理解できないとなると、「いや、それでもシステムは一切であり、神であり絶対なんだ」みたく、今尚もシステムが何であるのかを恣意で身勝手かつあんぽんたんに断定することに終始し続ける、ホワイトブラザフッドへ仲間入りにすることに限りなく近くなる。

 いいですか、理論というものは、君がいう「システムの状態」を対象とすることなんかではなく、理論とは対象に対して一定の観察を獲得することであり、観察とは区別を区別するということ。

 「観察の観察」ということは何なのか、それは近代の観察の読書会で説明済みなので、それを「固有値」にして議論を展開すると、またあなたはもう、だめだめだねということになる。それは、ルーマンの理論なんて、これっぽちも判らない私でも、こりゃ、ひどいなと思った。

 ルーマンの理論の志向するところは、その理論という観察を外部や権威、または超越論的なものに根拠づけない、自ら観察をその観察する対象の内に包含するものではなかったのではないですか!?

 それを長々と馬場さんの引用を用いて、自己の主張の拠り所としようとするところは卑しすぎる。さらに解釈もそれを解釈とは云えないくらい不理解で、もう恥をさらしまくっている。

 どうしようもない反論、意見には通常コメントしないのが私のスタンスですが、あえて投稿するのは、狂っていた私が、君の反論をお褒めしているかのようなコメントをしていて、それを否定する必要があると考えたのと、なぜか僕は、君が理解していないのが悲しくなってしまい、つづいて怒りがわいてきて、もう書くしかない、という気持ち。

 何が恥なのか、三つに別けることができる。一つは先述した固有値についての浅はかさ。ルーマンの理論にとっての固有値は区別ですよね。それは後続のコミュニケーションに接続可能ならばO.K、固有値となるわけで、その意味でシステムが変われば当然、それも変わることになる。
 
 二つ目。ルーマンのシステム論を勉強している者がシステム論とは全く反する、馬場さんという外部根拠に自分の観察を頼ろうとするパラドクスがあり、それが破綻している。いいですか、馬場さんを持ち出してくるならば、馬場さんが如何なる区別を区別しているかを区別するという、既に説明済みのセカンドオーダーの視点に立たなければならないのは、お解かり頂けますよね。

 三つ目。ホワイトブラザフッドのシステム論批判に使用される典型的な誤った指摘をそのまま用いている。つまり自己言及は閉じているから、だめなんだという白痴的思考法のこと。これについても先の投稿で書きましたし、システムの閉鎖・は開放性へと繋がることはルーマンが何度も説明していることでしょう。先の理論の話に即してして説明すると、自己言及的な理論とは自らが観察を通じて自らの観察をも観察するという自己関係的な点を閉じているというのであって、システム理論が社会を記述するように、それが全く没交渉的なものを表現するものでないのです。

 ながながと書いてきましたが、まだ言及すべきところがある。あなたは「救済」といいますが、救済なんてものは、てーげーが志向するものではありません。それはむしろ私と立場を異にするホワイトブラザフッド達が好んで用いるタームなのです。

 それよりも、馬場さんの文脈をそのまま用いて、てーげー理論を救済する心構えであると、短絡的に判断し、また固有値の不理解、自己言及的システムの閉鎖性に関するあまりにも幼稚な解釈(上述済み)でもって論述し、己の阿呆さ省みることなく、でかい面して反論できるならしてみな的態度、猛省せよ。

 最後にてーげーは救済と関係のないものであるが、救済に関して、だめだめな部分に少し触れておく。

>理論として確立されることは悩んでおられる方々に対しての救済には繋がらない(何故なら理論は説明に終始し、理論の有無に関わらずその方たちにとって揃局てーげーは環境との接触による偶発的なものだから)

 馬場さんの主張が説得力を持つのは、理論が<真/偽>というコードによって作動する学システムであり、偶発的である心的システムとは親和性が乏しいという観点です。

 ですが救済には、学的な意味の理論的性格づけなんていらない云ってもよい。救済を求める方に対して、例えばシステム論のような難解な論理で説明することは、救済という目論みは失敗する。それは救済の思想論理としては、システム論はあまりにも難解すぎるからであり、学システムにおいてさえ、ルーマンは判らんと、システム論はマイナーな位置を占めていることをご存知ではないですか?さらに救済というものは至って心的システムのテーマであるのだから、馬場さんの主張と君の主張は適合しない。

 てーげー理論および救済とはむしろホワイトブラザフッド的なもの、というお話は、こんなの書いても読み物として全く面白みのないものであろうが、それでも聞きたいという変人の存在と私のモチベーションという条件がそろった時に語られるだろう。

 ここでは、ただeculusくんのだめさ加減を説明できればよいことにする。

 参照記事:http://jibun.seesaa.net/article/6143662.html#more


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