書くということ

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 社会学的作法blogとは大弾幕を張ったもので、中身は趣味の類を出ない、学問おたくのごたく。そんな批判か、ありがたい叱咤か、気にとめることもなくもなく、ネットで書くことを6、7年続けてきた。その間、何人の女に棄てられ、何度、脳病院に入院し、何年、大学に在籍していたか、何人、友を自殺で失ったのか、何人、私に愛想尽きた友人を失ったであろうか。いろんなことが変化した。ただ一つ変わらないのは、私は今も書き続けている。
 
 

 書くことに対する姿勢も変転したが、それでも通低していることもある。書かれたものは、読まれなくては意味がない。いかにアカデミックで高尚な口ぶりをしていても、書かれたものは他人にエンターテイメントとして消費されるべきである。その思いは変わらない。

 「自分」という輩が書いているものは学ではない、己の趣味に没していると云われようが、私が唯一、気にかける事柄は、最後まで読まれたであろうか、ということなのである。ななめよみの類でさえ、嬉しく思う。ましてや、コメントを頂けるのは狂喜せんばかり。コメントするには、幾度か私のテクストを読む必要があろう。生意気な若造の物言いに苛立ち、罵詈雑言の類のコメントを残されても、その方が最後まで私の書いたものを読んだならば、それだけで私の目論見は成功している。

 論争形式のテクストは、ネットで書くことを始めて一貫して続いていることだけれど、他者が読まれて不快感を抱くこともあろうが、「読まれる」という消費に力点を置くとすると、おいしいテーマである。そこでの「自分」は無頼且つ粗野なのだが、論理的で社会科学に精通しており、論争に負けてはならない。他者を徹底的に論破することで、再び読まれる可能性を繋いでいる。

 これまでやってきたことが、私の文章修行になったかしら。そんなことを近年思うようになり、文学的な大きな仕事をしてみようなんて気持ち。けれど大きな仕事なんて、一生に一度、二度、できればよしとしなければならないほど困難なものである。当然、私の意気込みは頓挫し、ある時、安吾を読んで、薬を用いて、書くことの生産性を向上させようと閃いた。今春、私は薬のため命を縮め入院を余儀なくせざるを得なくなった。たくさんの友人が見舞いに来てくれた。皆、私を何一つ責めようともしない、善人なのである。私は、涙を流して薬を止めようと一人、病床で誓ったものである。

 今、私は再び薬を使っている。もう後戻りできないところまで来てしまったのかも知れない。最近、私に対して善良な善人そのまんまであった女の友人二人から、「あなたは私に誠意を見せたことがあるか?」と叱られた。棄てられたのやも知らん。両者にとって誠意とは私が薬を止めることである。あのね、もう戻れないんだよ。

 薬を使って、一つ大きな発見があった。書くために使い始めた薬であるが、書くことには、薬を使い、命を縮めてまでもする価値はない。少なくとも、私にはない。おいおい、書くことはエンターテイメントとして消費されるものに過ぎないのではなかったのか。

 人は進歩しない。近代は神からの呪縛から開放されたが、その後にはスペンサーやダーウィンの呪縛が待ち受けていた。皆、ハッピーエンドを信じて、汗水たらして暴走する機関車だ。明日は今日よりもいい日である必然性はどこにあるの。今では省みられることもない、どれだけの死者達の生がハッピーエンドであっただろうか。いやその生がどんなものだったかよりも、ハッピーエンドに描こうとする山師を僕らは睨みつづけるんだ。

 ねえ、ハッピーであろうと表象することに拒絶しつづけた、一人の白痴ぐらい居てはだめですか。時過ぎて、気がついて見ると未だ藪の中。その藪は一生開けることがありませんでした、では、物語にならないかしら。鼻でスニフして、この一行を書いている。進歩しない奴である。

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