あああくんに

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 素朴且つ純真な質問にお答え頂きたいと思いに至り、そのお答え、説得力あると判断すれば私もご指摘についてのお答えは、いとも容易いものなので、ご説明いたします。

1、ア-プリオリとの指摘ですが、では逆に、てーげーをシステム理論的に語る必然性は必要 なのでしょうか?例えば、宮台さんが独自の理論をシステム論的に展開されていらっしゃいます。システム論とブルセラというそれまで学システムではあまり、語られることのなかったテーマを実存的な問いにまで遡及し、意味づけされている発言もありますが、ブルセラというテーマとシステム論の接続ということが必然的であったと説得性を保持し得るほど説明することは可能でしょうか?また説明することに、どの観点において意味があると云えるのでしょうか?

 

2、必然性/蓋然性という区別することで、どちらのマークがより自己の主張をシステム論的に語ることに説得性を保持しつつ説明することが可能であるか、論理的にご説明願います。またそれを説明することが、どういう観点からして意味があると或いはないとお考えですか?

3、システム論的に自己の主張、てーげーを語ることは、たまたま自分の興味という個人的ものと一致していたという蓋然的に語ることのほうが、説得力を持つと思いませんか?また蓋然的なものを、ルーマンの主張に即して云えば、理論の端緒として展開することはいけないのでしょうか?いけなくないのでしょうか?或いはそれについて語ることがどれだけ意味があるのか、または無いのか、論理的に論を展開してお答え願います。
 
4、「「てーげー理論および救済とはむしろホワイトブラザフッド的なもの」などで、学問じゃないと宣言し、完全に研究計画的外在的突っ込みを無化。こりゃ逃げ道だなーと。」いうご発言、逃げるということは具体的にはどういうことを意味するのでしょうか?また、逃げていることはいけないことなのでしょうか?さらに逃げているという論証を説得力を持つほどに論を展開して頂きたい。その際、あのテキストで私が目的とする点について触れていますが、それを鑑みても逃げるているということの内容を説明し逃げる、逃げないということを語るのに、どれほどの意味があるかという点に主眼を置くことを希望します。
 
5、「学問の装い」とは、具体的にどういうことを云うのですか?答える際には、私が到底、論文的で用いられることのないような文体を意図的に用いている点に触れ、且つ、てーげーとシステム論の接続は、研究計画としてはボツと指摘しているのにも関わらず、学問の装いという主張は矛盾しないということに力点をおいてご説明ください。

6、「批判は主張ではなく、一切君相手にやったように相手のアラを探せばいいわけで、この言い訳は必要ない。だから「輝いてる」よと。」
批判する上で、主張がない批判がどのようにして可能となるのか、一切くんの文章読解する上でくり返し、私の書いたテキストの目的に触れている点を再読され、言い訳は必要ないとは具体的にどういうことなのか?輝いているということはどういうことなのか?さらに、一般の読者が説得性を確認できるレベルで、私の主張あるいは批判する作法において輝いているという表現が接続可能なのか?また輝くことについての言及はいかなる意図に基づいてされているのか説明願います。

7、ずるい、ずるくないという区別を持ち出すことが、どういう点において意味があるのか、或いはないのか?さらにずるいということはいけないことなのか、あるいはそうではないのか?論理的に議論を展開してください。

8、学システムと比してネットの発言はレベルが低いということを、一般の読者が説得性を確認しうるレベルで説明願います。その際、レベルが低いということは、具体的にどういうことなのかに触れ、また多くの方がネットで発言されておりますが、それは学システムとはほとんど無関係な発言であろうことを鑑みて、尚も学システムと比べることにどういう意味があるのか?お答えください。

9、てーげーを信仰の対象としていないお指摘、てーげーは信仰の対象という発言はどこから由来するものなのか?他人をたぶらかすという指摘、具体的に論証に力点をおいて他人をたぶらかしているということをご説明願います。また、たぶらかすとはどういうことなのか、具定例を提示していただき、たぶらかすことがいけないことなのか?或いはそうではないのかにつていも言及してください。

10、「理解されないたくさんの人間に読まれるより理解される一部の人に読まれたい、と思うね。」という発言は何を意図するものなのか?また、シーザーのブログはアクセス解析の分析に長けており、私のブログはブログランキングの社会科学の分野において、60位前後に位地しており、どの位の方が訪問されているかといえば、一日に100人程度のものであり、また、その方々のおよそ8割りは、ブックマークから訪問している事実を鑑みると、理解される一部の方々から読まれることに成功しているとはいえないでしょうか?反論お願いいたします。

11.上の事実を認めるならば、その後に続く「こうなると」という導きは成立しなくなり、それに続く、「自分君のモチベーションは、現実問題として学問の世界で生きていくことができないルサンチマンの成せる業」とい指摘も説得性が乏しいものとなりますが、批判してください。また、学問の世界で生きていくとは具体的にどういうことを意味しているのか?また私に才能がかりにあったとしても、学問の世界に戻る必然性を論理的に議論を展開してください。さらに才能というのは、どういう意味における才能であるのか、言及されることを希望します。

12.さらに日本において大衆を思想的にリードしてきたのは、文芸批評家たちであるという自明の事実、具体的には小林秀雄にはじまり、保田与重朗、吉本、江藤淳、柄谷といった面々の存在であったことに言及しつつ、尚且つ、学システムに留まる意味というものを批判的に論を展開してください。

13.「自分君に興味あるってことだなー」ということを認めるとすると、自分というキャラが少ないけれどもコアな読者を獲得しているのは、学問的な発言というよりも、そのわけのわからないが、なんだかムカつくけども気になるといった、強烈なキャラに由来することを、ある意味、認めているのではないでしょうか?批判願います。

   以上。
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