批判的に読むということ

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 一切くんに反面教師として、ご協力頂いて、私がどんなことを考えながら一切くんのテキストを読んでいたのかを書くことで、論理的文章法とか、論理的思考法、或いは議論に弱い、できない、という方々の知的レベルの底上げに何らかの端緒となれば、このテキストを書いた目論みは達成とする。くり返し述べておくと、一切くんは論理的思考ができてないという点でおばかであるけれども、それは私の知的レベルが一切くんよりも勝っているとか、論理的思考ができなければいけないとか、論理的思考ができる者は偉いのだとかを意味するものではない。批判的に文章を読むことなんて学校で教えるべきなんでしょうが、きっと皆、教わってないのでしょうね、テキストを読解するとはどういうことなのか、理解されてない方が少なくない。改めて読むということはどういうことなのか、参考にしてもらえたらいいなあ。

何らかの論理的主張がされていることを前提とした、テキストを読む場合、ミクロ的にはパラグラフ内における文章の有機的連関、マクロ的にはパラグラフはテキスト全体にとってどういう意味をもっているのか、また諸パラグラフの関係に注意して読むこと。ミクロ、マクロ的な文章の流れは、テキストが主張するある(一つ)の主張を支持するために書かれているものである。

一切くんの文章も得に接続詞とパラグラフ内の文章の有機的な繋がりに注目して読めば、いかに論理性といったものから、からかけ離れたポエムであるということが判る。

第一のテキスト読解、私の思考の流れを忠実に書く作法を用いる。

まず文章を一度読んで、内容的に触れるべきものがあるか以前に、批判するならば文章の稚拙さに触れるほうが、相手の無知に知らしめるには有効だと判断する。

一行目、ポイントがあるとは、どういうことなのか?ポイントがあると言うことを論証していない点を批判できる。

自分の主張の区別を端緒とするとい事から、皆も、同じも、それは単に区別の違いに過ぎないという点もつくことができる。

二行目、「みな」、すなわち一切全てが嘘ならば
甚だしい論理の飛躍を批判できる。みなということから、どこをどうして、一切が嘘ということになるのか、何の論証もなく、独断している点に注目。嘘と真理という対比で区別している点を、その区別の安直さを批判することができる。嘘の外には何もないという、独断に注目。最初のパラグラフの主張の前提になっているものは、皆とは全部嘘ということ。嘘には外がない。だから区別はいらない。全て論証なしの独断、論理の飛躍。説得性が皆無。

突如、ニーチェがでてくる。ニーチェの思想的子孫たちとは誰なのか?それを問いただす作法も批判には有効だろうと思う。

l.5ここで論理的に展開がある。システム論を批判しようと思われるのだが、システム論を支持するような主張がされる。

ニーチェ思想的子孫とシステム論を対比して、前者が区別を無効にする恐い哲学であるとシステム論支持のような発言に注目。

ニーチェ相対主義を結びつけることはよしとしても、相対主義は「一切全てを嘘だと豪語」とは何ら関係しないことをかなりつっこんで批判できる。一切すべて嘘ということは、一つの原理的価値を主張することであり、相対主義とは相反する。

例えば、一切が善ならば、道徳など要らない。一切が合法的なら法律など要らない。
 
例えばが例えになっていない。論証のないすべて独断。

一切とは「即ち」一切が嘘であったはず、それに続くニーチェの部分はそれをサポートする文章と解釈できるが、一切が善、合法、と論理的飛躍、じゃー、嘘、善、合法と変化することに触れ、それって一切ってことじゃないよねと触れることが可能であると思う。

一切否定即一切肯定という思考法は、区別を無効にする怖い哲学なのだ

論証なし。一切が否定が一切が肯定へという区別につながるといいながら、区別を無効という矛盾点をつくことができる。

はい、皆さん実は一切君の文章全て、私の思考の流れを追いながら読解しようと思ったのですが、最初の文章の最初のパラグラフのみだけでこれだけの、批判できる点、矛盾が続発するのです。より深い読み方をすると、指摘したもの以外にまだまだ批判することが可能なのです。

恐らく、書いている本人も何を書こうとしているか、書いているのか判っていないか、独断することで筆圧を強くすれば、私や一般の読者をだますことができるとなめきっていらっしゃるか、本当に詩人なのか、いずれかでしょう。

もう、最初のパラグラフを読めば、批判的に読む読解法とはどういうことなのかお判りいただけたのではないでしょうか。その後のテキストも凄まじい論理飛躍、論証なしの独断が続き、社会学的、哲学的知識の乏しさをさらけ出しているのに、俺は知ってるよ的に学的知識を根拠にしようとする主張が続発します。

ですが論理的思考ができる者にはこの手のテキストにだまされることはありません。嘘だというのなら、ランダムにパラグラフを選択していただければ、批判点、矛盾の羅列をお見せいたしますが、冒頭で申したように、このテキストは一切くんの知的レベルの低さをこき下ろすことではないわけで、これ以上立ち入るべきではないかと思います。

論理的に考えるということは、一切くんはかなりひどいほうですが、一般の方はトレーニングを積んでいないために、できていないのが普通であり、これが大衆の知的レベルでもあるのですが、くり返して再度申しますが、論理的思考で議論ができなければいけないということでは決してありません。ただできないよりかは、読まなくていいものを読まなくてよいという点で、できたほうがいいかも。

一切くんには全く嫌みではなく、ひたすら協力に低頭、感謝でございます。

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