てーげーという観察

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病院の独房、否応無く入れられ、禁断症状激しく、その苦しみ死ぬるごとく、開くはずのない鋼鉄の扉を狂気の叫びと共に殴ったり、蹴ったり、看護士、何の反応も示さぬと悟ると、手のふるえ、恐怖からの脂汗、気づかれぬように、かろうじて手首が出る程度の小さな覗き窓に引きつった横顔押し付け、「看護婦さーん、僕、もう大丈夫です。クスリなんて金輪際やりません。だからここ、ここから出してください。お預けした僕の財布に三万円程あるはずです。それ、それを差し上げます」返答のない誰かに、執拗に四時間程、こびるような猫なで声で訴え続けていると、突如、図体の大きな白衣の天使が現れ、筋肉注射。それから三日間、眠りつづけた。

「てーげー」は「救済」しない。或いは、ホワイトブラザフッドの常用文句である「癒し」でもない。伝統的存在論の呪縛の渦中、己を観察すること不能であるホワイトブラザフッド共は、「てーげー」とは何ぞや!?「てーげー」を説明しない「自分」という輩はずるい、なんてノータリンぬかしまくる。エクリチュールの「意味」は読み手にそのまま伝達されるものであると信じて疑うことのない、ああ儚いホワイトブラザフッドよ。デリダが主張したように、テクストには普遍且つ統一的意味など存在しない。かりに、私が「てーげー」とは「いい加減」を意味すると云うとする。私の意味する「いい加減」は読み手に一分のくるいもなく伝わるというのであろうか?また差異の構造による言語はいくらでも、言いかえ可能なのだから、説明!説明しろ!って、云われるならば、てーげーについて、いくらでも形容することができる。つまり、てーげーの説明を求めるホワイトブラザフッドに、てーげーを説明すればするほど、てーげーはその属性が故に縦横無尽にへんげをきたし、混乱のホワイトブラザフッドは、更なる説明を求めるという無限地獄の苦しみ。ああ、やはり、「てーげー」は救いにはならぬとポツリと洩らす。

「てーげー」とは私の「観察」である。残暑のきらめく日の光の中、私は横浜にある薬物依存専門の脳病院の門を暗澹たる気持ちで、くぐった。その後に待ち受けていた離脱の、のた打ち回る程の呻き。私は、生きるという苦しみは、死ぬ苦しみよりも辛いものだと悟った。そう生を「観察」したのである。私から発せられた、この観察も「てーげー」であり、またてーげーの有する属性のために、この悶絶の辛苦も「てーげー」と観察され得るのである。けれど、てーげーが観察という以上、いくらてーげーであっても同時に複数の区別をマークすることはできない。私は生は苦/楽という区別に基づいて、前者の生は苦しみであるというてーげーを選択したのである。注意しなければならない点は、あの「ガッチャン部屋」と呼ばれていた、独房で生きることは苦しみであるとの、てーげーという観察をして、涙を流し助けを求めた、あの時、あの時の私には、マークされなかったもう一方の側を意識することはない。「てーげー」という私の観察はファースト・オーダーのレベルの留まっているのである。

え、何の確証もない未来における幸せという白昼夢のために、なぜ今を我慢、努力しなければならないの?近代という怪物は、我々に「進歩」という諸刃の剣を与えたもうた。今日よりも明日はきっと、きっと楽しいはずなんだ。夢に向って苦しみに耐え努力すれば、きっと将来、僕たちは幸福を手に入れているはずなんだ。そんな、うたかたの夢路が夢路に過ぎないと気がついた時、人はあの「ガッチャン部屋」での絶望を見る。

る高名なホワイトブラザフッドが地球外生命体とチャネリングすることで、私にすばらしい言の葉を、お与えくださった。私が薬物依存症になったのは、悪霊がとり憑いているためであり、そのご高名なホワイトブラザフッドに帰依しなければ、人生に破綻をきたすことになると。

は「進歩」しない。悪霊がとり憑いているのならば、墓場までご一緒しましょう。くすりに溺れ、精神衰弱進み、毎晩、借金の取立ての夢にうなされ、ことごとく好いた女性からは棄てられる。けれど、それでも、それらの観察は「てーげー」なんだ。あなた、僕がこの僕が身をもって、堕落且つ退廃的である「進歩」なんて全く無関係な生涯をおくってお見せします。そして死に際、事切れる瞬間、微笑むこともなく、かといって悲しみの素振りも感じさせずに、うつろにただ一点を見つめ、ぽつりと「ああ、てーげー」と申して見せましょう。

「救済」や「癒し」なんて、あっち行け!おいら進歩なんて信じないし、必要ともしないかんね。その代わりに、この狂人の「てーげーという観察」を端緒として、システムを創発する。そうすると、私が創発したシステムの作動はセカンド・オーダーの観察に曝されることになる。私の観察を観察することで、観察というシステムは回帰的なネットワークを伴いつつ継続され、「てーげー」の意味内容は、経験的言及というレベルに移譲されることになるのである。私の観察を端緒として、てーげーというシステムは自己言及的に観察を再生産し、各個人がてーげーに、己にとっての、てーげーシステムを創発することで、近代が生み出した自明性を脱構築することに何らかの指針となるとするならば、「ああ、てーげー」と呟く瞬間の私は、きっと「てーげー」であるはずに違いない。


参考テクスト:http://d.hatena.ne.jp/eculus/20050825 の無策氏のコメントを参照せよ。てーげー革命についての無策氏の解釈は、私の意図するところを判りやすく説明している。

「社会の観察の観察」観察の形式について。あるいは、セカンド・オーダーのレベルの観察について。

「てーげーは終わらない」てーげーが焦点を向ける主要なテーマについて


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