社会の観察の観察

▼最初に現在のランキングを確認するなら
人気blogランキング

 観察とは境界という区別を設けて一方を選択することである。マークされた一方が観察で、その背後にはマークされなかった一方があることを意味する。つまり観察は観察されないものがあることによって、観察が可能となるのである。

 
 
 私は誰も救わないし、癒しもしない。そのつもりもない。ただ社会の観察を観察しつづける。そして執拗に社会が観察するものに反抗し、或いは観察されなかったものを、「書く」という作法でもって隠されたものたちを顕在化する。社会に適応し、立派な社会人として日々努力の毎日、そんな勤勉な方々から、おまえは社会不適応者だ、社会のくずだと罵倒され、卑下されたとしても、社会の観察の観察だけは決してやめない。

 自分は社会の正しき住人であると疑うことの無い者たちの観察はファースト・オーダーの観察のレベルにある。その観察における観察者は自己が見ているものしか見ることができない。その見ている背後には、見ていない社会があるということにさえ無自覚でいる。けれど、社会不適応者且つ無知でくず同然の私は、ファースト・オーダーの観察を観察することで、それよりもメタなレベルのセカンド・オーダーの観察をする。私は自明性というものを疑うことのしない人々が、いかなる区別で観察をし、何が隠蔽されているのかを見続ける。そして再び、書く作法を通して、実は社会不適応者のほうが、適応者よりも「見ることがなきないものを、見ることができている」のだと脱構築を謀る。そうして社会から「なにやらこの狂人、意味のわからない独語を吐いている、ほっとけ、ほっとけ」なんて云われて、社会不適応者という自分の場所に恍惚の笑みを浮かべ再び帰っていくのである。

 私への社会不適応者との揶揄は、私にとって賞賛の言葉へと変わる。自明性を疑うことをしない人たちも、結構いいやつじゃん。おいらも仲間に入れてもらおうかな、なんて思うことはぜってーないけど、「自分」がおだてられても決して忘れないことが一つある。セカンド・オーダーの私の観察も、違う他者にとってはファスト・オーダーの観察であり、メタなレベルの観察している私もまた、その観察の背後には、観察されてない空間があるということを。

このサイトはブログランキングに参加しています。
▼クリックにてご協力をお願いいたします。

人気blogランキング