ホワイトブラザフッドへのレクイエム 其の一ホワイトブラザフッド創造

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 最近、ホワイトブラザフッドというタームを私の意味合いで、象徴的に用いています。このタームは、神秘主義批判を出所としていますが、厳密な意味で私がホワイトブラザフッドと云う場合何を意味しているのか、またそれが生まれてきた社会的背景を説明しておこうと思います。

 日本におけるホワイトブラザフッドが生まれてくる源泉は、眼を細めつつ遠くを見つめ、ああ、我が青春の60年代とぽつりと呟く、途方も無く馬鹿なノスタルジアに支えられて生きている団塊の世代です。この世代は頭が極めて固く、柔軟な思考不可能であり、いつも説教ばかり垂れている、取るに足りない連中なのですが、稀に新たなホワイトブラザフッドを再生産する影響力を持ちえるオヤジがおり、実際は郷愁の念に頬を赤く染めているおせんちな野郎でしかないのですが、ああ無知な若人よ、中には、このおせんちなホワイトブラザフッドに帰依する者が少なくないのです。

 ホワイトブラザフッドが影響を受けた思想的背景について触れておきます。60年代にアメリカにおいてニュー・エイジ運動が開花します。当時のアメリカはベトナムにおける北爆の開始、公害、人種問題が顕在化することで、ダイナミックな時代の流れの中で若者は、近代合理主義に懐疑の眼を向け、理性に裏付けされた西洋的近代は人を幸せにしないと気がつきます。こういった若者達は、既存の管理社会或いは産業社会から自らドロップアウトすることで、コミューンを形成し共同体主義への復古といったような、カンターカルチャー(対抗文化)を形成し、それはヒッピー文化として世界的なムーブメントとなるわけです。

 ニュー・エイジの特徴として、近代西洋の合理主義に担保された物質文明、西洋科学を根底から否定し、東洋思想への傾倒、得に19c以降のインド哲学に影響された神秘主義を受容します。その神秘主義思想の目指すところは、絶対者なり地球外生物、或いは神といった超越的なものとの神秘的合一という直接的な神秘体験することで、絶対者との対象性が脱落し、それまでの自己は神に吸収され無となり、新たな自己は、神のレベルへと魂の昇華を遂げることにあり、そんな未来に訪れるという何の確証もない合一体験のために、ホワイトブラザフッド予備軍は禁欲、帰依、瞑想といった、てーげーあらざるものに思考停止的盲目脳みそでもって、ひたすら日々、魂の向上に努めているのである。

 日本の60年代は安保改定という、アメリカへの反発から幕が上がりました。けれど安保に関して云うならば、果たしてどれだけの学生が改定の内容を読んでいたのでしょうか?安保条約第3条は、相互防衛体制を規定していますが、これによって日本は自国の有事において、アメリカの軍事パワーのバックアップを基地と交換に得ることができた。安保改定は冷戦期の日本の軍事戦略としては間違いではなく、また旧安保に比して遥かに平等的な条約であったわけです。けれど後にホワイトブラザフッドとなる若人達のノータリン、彼らは安保改定内容も読まずに、アメリカ生まれのジーンズを履いて、体制に牙をむいている自分に酔いしれている姿を想像すると、現代、オヤジになって、誰も聞いてくれない日本の愚痴ばかりたれてる団塊の世代の哀れな姿がシンクロしてきます。日本の近代史は欧米に対抗するために、欧米の模倣をしました。ホワイトブラザフッドを生んだ団塊の世代の60年代も、反抗の60年代として欧米に影響されお祭り気分でうかれていた、ああセピア色の60年代。この世代のダメなところは、世論や時代の流れに思考停止で流されていることに気がつかず、自分は「主体的」な存在と信じて疑わない。ああ、無知よ。

 70年代に入り、連合赤軍事件、オイル・ショック、また既に共同体的紐帯が失われたことを示唆した、ピアノ騒音殺人といった社会不安を煽るような事件が起こる中、74年に、スプーン曲げの関口少年が登場し超能力ブームに火がつき、エクソシストが大ヒット、ノストラダムスの大予言がベストセラーになり、少し大人になった後のホワイトブラザフッド達は、決定的にオカルティズムの洗礼を受けることになります。

 この時代は新新宗教が台頭する時代でもあります。多くの教団が時代のブームであるオカルティズムを教義に取り入れ、「現世における救済」を謳いました。救済という儚い夢路の押し売りが始まるのですが、救済が受け入れられるためには、救済ではない状態が必要になります、そこでカルトを取り込んだ教団の多くは、終末思想を唱えることになります。70、80年代を通じて、恐らく、後のホワイトブラザフッド達の少なからずは、こういった教団で修行を積んだことでしょう。

 90年代にご存知の通り、オームの一連の事件や他の宗教団体がマスコミにより問題視されるようになり、マスメディアが創りだす時代の流れに敏感な団塊の世代のホワイトフラザフッドは新たな始動を見せることになります。まず、何かあやしい連中の集まりといったスティグマをもらってしまった、宗教団体といった形式を選択せず、共同性よりも、個人的な活動によって意識変容を目指すようになるのです。そうしてホワイトブラザフッドが至る所に出現するようになります。なぜなら教団であったら、教祖は一人ですが、ホワイトブラザフッドは合一体験をしたと云えばだれでも、ホワイトブラザフッドという神レベルの存在になれるのだから。日々、量産されるホワイトブラザフッドは訝しいものとなった「救済」のスローガンを「癒し」という大衆受けするものに変えて、魂の向上という進歩目指して、己が拒絶した近代西洋の進歩史観の下、虚しい努力というものに時間を費やしているのである。

 ホワイトブラザフッドが生まれてくる社会的背景をやや冗長と思われるかもしれませんが書いてきました。それは、私が問題視するホワイトブラザフッドは何なのかということを理解してもらうには、明確にホワイトブラザフッドの意味するところを説明する必要があった。ではホワイトブラザフッドの何がだめなのか?書くという気力、体力失せる中、機会をみて投稿していこうと思います。

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