宗教を観察する

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 「複雑性」という概念から論を展開してみようと思います。てーげー理論でも、システム理論でも、どちらでもかまいませんが、理論の端緒となるのは差異(区別)であると、これまでに何度も申してきましたが、「複雑性」の概念を論の端緒とする理由は正にそこにあります。「複雑性」とは、ある対象が持つ属性ではなく、あるゆる対象を区別を用いて観察する閉じた形式の一つなのですね。差異に基づいた理論においては、システムは環境との差異によって生じることになります。その際「複雑性」という観察の形式を用いるならば、システムの構成要素の選択的な関係づけ/完全な関係づけ、という区別に依ることになります。我々、人間には、環境世界に継起しうる、もろもろの出来事を完全に把握することは言及するまでもありませんが不可能なわけで、当然、区別によって指し示されるものは、選択的な関係づけの側になります。システムは高次の複雑性に富んでいる環境世界の事象を、選択的に関係づけ、認識の範囲を限定することで、環境世界を記述するわけです。忘れてならないのは、指し示されなかった側、つまり、環境は見ることができない。では、環境はどのようにして記述されるのか。それは、これまでに何度も説明したもの同様、システム内的に環境は再構成されるわけです。
 
 

 本来ならば、上述したような基礎知識をわざわざ説明するなんてことは、馬鹿馬鹿しく避けたいのですが、これまで間接的にしろ直接的にしろ書いてきたテクストの示唆するものに対して、オメーぜってー判ってねーよな的反応を示される方々がいらっしゃるため、少しおセンチな心持で説明した次第でございます。

 さて本題に入ります。ある原理なり、教義を生きる指針にする者にとってセカンド・オーダーはマイナスの機能にしかなり得ないのでしょうか?ある原理なり教義は世界に普遍妥当する真理を提示します。嘘ではございません。けれども、それは真理/非真理という区別において、真理と選択した者にとっての真理であり、換言すると真理というものは、常にシステム内的な作動によって、真理であると取り扱われたものであるのです。

 ここで少々問題が発生します。真理を提示し、世界を説明する、ある原理や教義は、あまりにも複雑性に満ちている。以前にある宗教集団をフィールドワークしたことがありますが、信徒の方々は本当によく勉強しております。それだけ、教義が高次の複雑性にあるわけですね。彼らには、生きる指針となっている教義が、上述したところの環境なわけです。くり返しになりますが、いかにある教義が世界の万物を説明し得るものであっても、それを解釈する人間は神経生理学的な意味で生体システムであり、世界を説明する教義を完全な形で情報処理するには、あまりにも単純なシステムである。やはり、ここにおいても、選択的/完全な関係づけという区別において、前者を選択することになるのは不可避なのです。

 では、皆一様な限定的なレベルにおいてしか、原理なり教義に対応できないのであろうか?答えは否です。少し考えてみれば判ることです。つまり環境というシステムの要素をシステム内的に、選択的に関係を持つことにより、ある状態や出来事が継起するわけですが、その現実に選択された関係性の他にも、現実に継起する蓋然性のある関係性をシステムが選択の地平に有していればいるほど、より高次の複雑な環境に対応できるということ。したがってシステムは複雑になればなるほど、変転する環境の要求に適合した反応をするための、より多くの可能性を持つことになるのです。とほほな方が現れないように念を押しておきます。環境世界の複雑性を処理する能力は、システムにおいて選択されうる要素の関係性の数の多さによって規定されるということです。

 そろそろ結論が見えてきました。観察の観察は、ファースト・オーダーの観察者が如何なる区別を用いて、どちら側を指し示し、或いは、指し示さなかったかを見ることで、ファースト・オーダーの観察者が自明なものだと当然の如く扱っているもの、行為していることは別様である事柄の一つ、つまり偶発的なものに過ぎないということを確認することである。その意味でセカンド・オーダーの観察はメタなレベルにあり、システムはより高次の複雑性を呈することになります。したがって観察の観察により、システムは、より複雑な原理や教義といった環境に、ファースト・オーダーでは扱うことができなかった事柄も扱える高次なレベルへと移行が可能になるのですね。複雑な様相のシステムであるほど、より複雑な環境に対応できるということは、原理や教義を相対化するという選択も可能であろうし、拒否するという選択も可能ということであり、ファースト・オーダーの盲目状態と、セカンド・オーダーの可能性の地平が格段に拡がる状態、果たしてどちらがスマートな選択であるかということに答える必要はもうないでしょう。


追記:複雑性の概念を使用して云えば、観察の観察をいやがるとか、壊れるとか、心的システムの内容を問うのは、不毛ということは何度も云ってきたことだけれども、なぜならそれも、複雑性という観察の形式にとっては、別様である一つの状態に過ぎず、複雑ということは、ほかの観察もいくらでも可能であるということなわけで、であるから、如何なる区別がされ、何がマークされたのかを把握することが理論的には意味があるものとなるのです。

 またホワイトブラザフッドと宗教という関連で考えるべきでなく、それは追々、機会と健康状態に恵まれた折に語られるかと。最後にある原理に生きる指針を求めることがいいとか、悪いとか、そんなことは全く個人の生き方の問題であり、私が何か云うべき問題ではありません。ただ、私は、粛々と社会を記述するのみ。その記述の中に、そういった方々が登場してくるだけの話し。

参照記事及びコメント:http://jibun.seesaa.net/article/10105719.html

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