「自分」は無頼であるが虚栄ではなく、君は虚栄ではあるが無頼ではない

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 見過ごしておこうと思っていたのですが、社会科学、哲学の知識に乏しいであろう一般の読者を筆圧を強めて書き、虚栄で身を飾ることで、素人知識をあたかも専門家のように語り、誤った知識を「社会学的作法blog」から世にけ散らし、

無垢な読者に馬鹿をうつしている。害こそあれど、一利もない詐欺的行為のどうしようもない卑しさは、これを期に終わりにしろ、と苦言を呈し、一般の読者には正しい知識を供給することにより、このテキストの役割は遂行されたことになる。以下、「鬱な掲示板」から全文を引用します。

 
 「時折起こる自分さんの自虐的思考や自殺念慮は、認知療法でいうところの鬱病患者特有の自動思考ですよ。鬱病患者特有のスキーマ(信念)です。臨床心理学的には、論理療法で治療可能です。あらゆる思考(区別)や感情や行動は、出来事に反応したスキーマ(信念)から生じます。区別の前提には、スキーマ(信念)の志向性が読み取れます。

 話はかわるが・・・。

 区別の前提にあるのは、現象学でいうところの志向性あるいはニーチェのいう生きんとする意志です。なぜそのように区別し世界を分節化するのかは、自我の欲望によります。例えば、お腹がすいている人は、食べ物/食べ物でないという区別で世界を二分割します。区別の前提にある欲望や目的がどんなものか見抜きましょう。区別を見抜くよりも根源的です。
 これは、意識システムのレベルだけはないです。今、社会システムがニート/ニートでないという区別で若者を観察するのは、経済的資本を蓄積するという社会システムの機能的目的からです。これは、抽象化すると、パーソンズのシステムの機能的要件につながりますね。パーソンズAGIL図式によってルーマンのシステム論も相対化できます。区別による創発ではなく、機能的要件の遂行という目的が諸々の状況に合わせて色々な区別を代替的に使用して社会秩序を維持しているだけです。パーソンズは、機能分化した社会システムの全体性・統一性をよく説明してくれますが、ルーマンは記述だけで終わってます。区別を記述するだけで、区別の原因や目的になるものを説明してくれません。区別に先行するのは別の区別ではなく、それ以上、遡れない欲望や志向性や機能的要件です。複雑性の縮減が区別の目的だと言われても、それはトートロジーであり、説明ではありません。」


 認知心理学における「スキーマ」とは「信念」なんかではないから。「スキーマ」とは社会の成員が相互作用を通じて獲得した知識システムを指します。認知の分野では、「モジュール」といいますが、システムを構成する諸要素のことで、この諸要素が選択的に関係することで、様々な認知の状況に対応することができるわけです。判りますよね、あなたは全く正反対のことをいっていることを。つまり「スキーマ」とは他の変数を取り入れることで、多様な認知の状況に対応することが特徴であり、スタティックな「信念」とは全く、ぜってー、関係ありません。パーソンズの規範志向的なものと関連して閃き、嘘ついちゃだめです。スキーマは「一般的知識」として理解してもよいですが、けれども、その知識はコミュニケーションされることで変容しながら自己を再生産していき、正にその変容するという動的な特性において、あらゆる認知的状況と関係することが注目されて、分析の対象となっているということです。

 現象学でいうところの「志向性」ですか。まず、現象学とは具体的に誰の思想を想定しているのでしょうか。うつ病患者の特性とか、認知療法やら、現象学といった外部根拠で説得力を持たせようとするところも卑しいが、それら全ては一枚岩ではなく、様々な類型、学派、思想に分化していることにます気がつきましょう。

 普通にフッサールを想定しているのでしょうが、「志向性」という概念をつかったのは、ブレンターノが最初です。ブレンターノはあなたが訳のわからない批判をする「区別」を示唆的ではないにしろ用いており、そのためにシステム理論的に解釈しやすい。ブレンターノは心的現象/物理的現象、というタームで区別しますが、彼の「志向性」概念で伝えようとしたことはこういうことです。心的システム(心的現象)と環境世界(物理的現象)という区別は、心的システムが志向的に環境世界について関係することであり、従って、システム内的に環境世界は記述され、その意味で環境世界は心的システムに包摂されているものであるということ。環境世界で継起する物理的現象は心的システムによる志向性が向う対象であり、物理的現象から心的システムを記述することはできない。ブレンターノは心的システム(心的現象)内で志向されたもののみが、実在を保証されるという、今の構築主義が陥る誤り(1)、つまり、「実態は虚構に過ぎない」というような思考を『経験的立場からの心理学』ではしていたように見えますが、ウィーン学派においてトワルドウスキやマイノングらが、実在を想定していない対象を本気で考察しはじめてしまって、後に心的システムに継起する全てのものは、「表象」であると、変遷します。「表象」という言葉の根底には、ある対象が実在しており、対象を記述する言語や記号というシンボルはその対象と一致していることを含意しているのです(2)。いずれにしろ注目すべきところは、ウィーン学派は心的システムが志向することで、志向作用が向った対象の存在性格に注目するという点です。私がよく言うシステムの内容を問うても不毛であることを、ウィーン学派は研究していたわけです。

 フッサールはブレンターノに影響を受けますが、ある対象の実在や非実在という内容如何を問題とするよりも、いいですか、ある対象から「遡及」することで如何なる心的システムの作用において、或いは、いかなる志向において、ある対象がそのようなものとして捉えられるのかを問題としたわけです。つまり創発されたシステムの内容よりもそのようなシステムの創発が如何なるメカニズムにおいて、されたのかという、私が云う、システムはいかなる区別によって創発されたのか、あるいは創発されなかったのかを問えという理論的枠組みと一致することはお判りですよね。

 ここでも再び、あたなは区別の前提にある志向性なんて、大うそついちゃったのですね。再度思い返してみましょう。フッサールはある対象から遡及することで、対象の対象たらんことを考察したのですから、前提だなんて、これまた全くの激烈的に真逆ですよね。

 あの私はシステム理論的に他の思想なりを解釈しているために、システム理論だけを語っているように見え、故に「自分」はシステム論しか知らんと舐めて、詐欺的行為に及ぶと、少なくともあたなよりも、いろいろ読んでいることは間違いありませんから、嘘を皆の眼前で暴き曝しますよ。

 己の卑しき行為、猛省し、能力を背伸びして見せずに判らんものは認め、肥大化した自意識を棄て、地道に勉強を重ねよ!

【註】
(1)「構築主義は嘘つきか?或いはてーげー的戦略について」構築主義に対する典型的批判、及び、構築主義を標榜する者さえも自ら陥ってしまう誤り。「てーげー」は構築主義的に区別を使用して観察する。「てーげー」の使用する区別はいかなるものなのか。また「てーげー」が意図するところを参照せよ。単に「てーげー」とは、てーげーである/てーげーでない、という区別によって創発されるものではない点に注意せよ。

(2)「ホワイトブラザフッドへのレクイエム 〓オヤジ的観察」二値論理に基づいた観察の作法。存在論が自己を正統なるものとして、持ち出してくる外部根拠の脆弱さ、構築主義的なてーげー理論は自己の観察の根拠を外部の原理には頼る必要がない点に注意せよ。また、二項対立と二元(二分)コードの違い、二元コードに基づいた観察は単純であるという、典型的な批判者は、それは批判たるに値しないことを、よく読んで参考にせよ。


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