社会てーげーシステム理論

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 あのー、私はルーマンのシステム理論に影響を受けている事は確かであり、よくあるご批判でルーマンばかり読まずに○○も読めなんてね、ですが私はその○○何がしという社会学者、或いは哲学者、思想家なんでもいいですが、その○○の研究を、システム理論的に再解釈しているのであって、読み手は私の書くものを、ルーマンの理論と読むのでしょうねー。ほんと、ルーマン語る者多かれど、知る者はかなし、状態だから。けれど、再三に渡って云っていますが、私の書くものをルーマンの理論だと鵜呑みにするのは、後に大恥かく恐れありなので気をつけてね。

 

 私はルーマン理論の解釈なんて、どうでもいいのだから。それよりもルーマンの理論をダシにして自分を語ることが目的であり、その点でルーマンのシステム理論を好き勝手に、こねくるまわして、使っていることに後ろめたさなんて感じる、ああ、「ピュア」な「自分」なんて遥か昔に棄ててしまったのだが、それでも数少ない、真摯にルーマンを研究されている方々をリスペクトし(1)、畑ちがいな空間で、「てーげー理論」なんてね、全く意にも介しませんが、嘲笑されるようなタームを用いてテクストを生産しているわけです。

 テクストを観察するに「学システムに属している/属していない」なんてことは、私にはどうでもよく、エンターテーメントの一つとして、かりに私の書いたものを読了し、さらに何か、感じるものがあってくれたならば、もう、それだけで、私のテクストを生みだす目論見は大成功ってことなのです(2)。ですが、稀に「社会学的作法blog」で書いているものを、「学」として、或いは、ルーマンの理論を理解する目的で読まれている方が見受けられ、最近の記号論からすると、テクストは如何様にも読むことが可能であり、存在論的な意味なんてものはないんだということになるのでしょうから、使いまわされ、飽き飽きな表現ですが、あえて申しますと「ポストモダン」してる「自分」は、あんたが、当テクストを、どう読み、そして後に大恥かいたとしても、それは「自分」の関与するところではない。でも、遠まわしに注意を喚起しといたかんねー。「自分」の生産するテクストは「理論でも思想でもない理論であり思想」ということを。

 そうすると稀というか、ほとんどなのですが、「はっ?てーげー理論?こいつ馬鹿だぜー」って、安易に熟考することなく、レスを投げかけてくれる者あり。しかも、どんなもんだいってね、ご自身の阿呆さに気がつかないのは、自己を観察する術、ルーマンの理論で云うならば、セカンド・オーダーとは何ぞや状態なわけで(3)、それはある意味、赤子のように無垢であり、真っすぐな眼差し曇りなく、ブログにおけるレスは孤高なる者のレスなのだが、されど悲しいかな、孤高なる者のレスは、孤高的に、真っすぐで曇りなく、純粋無垢な単なる阿呆なのでありました。

 またもう一種の阿呆がおりまして、この種は、自の阿呆さに気がつきたくないけれど、気がついており、他者を見くびることで、脆弱な自尊心を何とか温存しようとする。そんな自意識すてちぇえば、ええのに。プライドは高いくせに自信がない。もうどうしようもありません。この種の兆候は、社会科学や哲学をかじっている者に高確率で当てはまります。他人を見下し、偽りの能力に背伸びして(4)、あなた、あなたも、はい、モニターを鼻ほじりながら眺めている君も、そうやって生きていくのですか?

 おいらは、「てーげー」でいきまする。「えっ?てーげーとは何だ?って」。だからね、「複雑性という観察の形式」を用いた差異理論において、「てーげー」というシステムの内実を問うことは不毛であると、あんたに裏拳入れたくなるくらい、これまでに教え諭してきたではないの。「てーげー」というシステムが創発されたのには、如何なる区別が区別されて、如何なる区別が区別されなかったのかを観察せよ。

 或いは「てーげー」というシステムの創発が回帰的ネットワークを形成したならば、「てーげーシステム」における、コミュニケーションの連鎖に使用される安定的な固有値が二元コードとして観察できる可能性もないわけではないかも。けれども、「てーげー」とは、その元来の属性に基づいて、いかなる区別も「てーげー」として創発可能な点こそに大きな意味があり、固有値が生まれるのか否かは、実際に「てーげーシステム」を観察し、「てーげー」が如何なる変容をとげるのか、てーげーという自己言及システムの経験的観察に委ねられることになる。ただ、よく見受けられる安易な断定に、「てーげー」は「てーげーである/てーげーでない」という区別によって創発されるとの類があるのだが、それはある意味、その区別にのみに固執して、てーげーを観察するならば、「てーげーの内実を問うことに意味がない」という理論的なフレームから逸脱し、理論の整合性を保つことが困難になる可能性もある。なぜなら、てーげーが何かと問うことなかれといいつつ、いなにして「てーげーである/てーげーでない」という区別を区別し得るのかというアポリアに起因する。

 であるが、このアポリアは「区別の再参入」という循環性に眼を向けることで解決されうる。つまりこういうことである。区別を端緒とする(5)、「てーげー理論」において、「てーげー」という観察者は観察の形式として区別した一方に、さらなる区別を再参入することで(6)、観察する当人が観察されるものとしてに当の観察に登場することになる。この循環的な自己言及の性格のため、システム創発のために、まず最初の役割を果たす端緒としての区別は、区別される必要性はないのである。或いは、「区別に先だつ世界は必要ない」という表現も可能であろう。端緒となる区別を区別するならば、さらなる区別を区別しなければならないという無限遡行に陥ることになる。従って、端緒としての区別に「てーげーである/てーげーでない」という区別を使用するのは、区別の選択肢の内の一つとして受容されることになる。端緒において、「てーげー」が何を指し示すものなのか理解できなくとも、その「てーげーである/てーげーでない」という区別は、システム創発するためのトリガーとして、ただ、それのみに機能すればいいのである。そうすることで、一端、システムが創発され、「てーげーシステム」がオートポイエティックにオペレーションを連鎖させることで、「てーげー」は安易な決定主義に陥ることなく、常に吟味、参照され、「てーげー」は、システムを創発する者それぞれに、「てーげー」の「テーマ化」という現象もたらすことになるのである。既に我々は、「それぞれ」の「てーげー」であるとするならば、「てーげーシステム」はコミュニケーションの接続が不可能となり、システムが連鎖することもない、という批判は批判たり得ない理由に気がついているはずである。

 即ち、「てーげー」はてーげーであるがために、いかなる区別も、てーげーを創発する区別として用うる可能性の地平が拡がっており、正に今、我々はこのテクストを読むことで、その地平に脚を踏み入れたところなのだから。

【註】
(1)「自分の強みと弱み」を見よ。無頼にもスマートな作法がある。ただ単に粋がり、ルーマンを武器に自己の能力を誇張して見せようとすることは、端的にばかである。議論形式のテクストに、頻繁に使用される「○○学的に云うと」の類は(宮台さんによる影響であり、馬鹿を生み出す権化である。しかし、宮台さんぐらいなら、「社会システム理論的に云うと」と云ってもいいかと思う。逆に言えば、そのぐらいの能力がなければ、大弾幕を張る資格はないということ)、学システムが複雑に分化してる状況において、全ての知に対して専門家になることは諦めざるをえず、また不可能であり、安易に「○○学的には」とか「ルーマンよりハーバーマスのほうが偉い」などという断定することで、後にその道の専門家から冷や水を突然浴びせられるような、恐ろしい批判を喰らうことがある。無頼の作法とは、自己の能力に嘘をつくことなく、他者を影でリスペクトしつつ、表ではののしる作法である。

(2)同じく「自分の強みと弱み」における、aaの学システムに属するテクストが偉いんだ的、馬鹿なコメントを見よ。例えば、ブログのような、名もなき個人が世界に向けて情報を発信できるメディアの革命的といってもよい可能性なんか全く考えていないし、例えば、アメリカにおける、新聞という権威的なメディアと張り合うだけの力があるブログの存在、ブログが世論をつくるといった現状を知らずに時代から取り残されているのも知らず、斜に構え、ブログを劣ったものとして扱うaaの劣った認識を笑え。
関連テクスト:「あああくんに」
「あああくんにもう一つ」を見よ。

(3)「てーげー革命について」セカンド・オーダーのレベルの観察について参照せよ。以下同じ。
「社会の観察の観察」セカンド・オーダーの観察が主なテーマ。
「てーげーという観察」てーげーをセカンド・オーダーの観察へと移譲することについての目論見

(4)「「自分」は無頼であるが虚栄ではなく、君は虚栄ではあるが無頼ではない」を見よ。

(5)「区別の二つのレベル」区別に基づいた観察の形式について。
「区別は差別ではない」観察の形式、及び、区別という言葉から連想される典型的な「差別している」批判について、そんなものは批判にもならない的外れな戯れである。

(6)「外在的な社会に生きにくさを感じる者へ、或いはその脱構築」区別の再参入とセカンド・オーダーのレベルの観察との関係に注目せよ。


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