死ぬための教則本、或いは、あるアッパー常用者の手記 其の一

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 僕は既にこれまで書いてきたような論理性を要求されるテキストを書けるような思考ができる状態にない。薬をやめることは不可能と思われる。薬物或いは、アルコールを過度に使用してきたものの多くには脳に萎縮が見られ、それに伴った認知障害は独創性、記憶容量、論理性に支障を来たし、今ではその種のテクストを書くこともできないし、自信もない。

 

 依存症の生活史を辿る研究結果より、依存症と診断された後、例えば、3年後、5年後、7年後の生存率を見てみると、加速度的に低下していく。僕はあるベテランの域に入る精神科医から聞いた話を想起する。

 彼が担当した依存症以外の精神疾患の患者が自殺等の理由で亡くなったものは、(数十年の経験において)7人であるけれども、依存症である彼の担当の患者は、一年の内に10人以上は亡くなっているという話である。

 ここでも僕は今、日本に蔓延している、亜流のスピリチュアリズムを批判せざるを得ない。(1)彼らは、今日よりも明日が幸せであるべきことを信じて疑わず、癒しの押し売りを悪質な訪問販売の如く執拗に迫ることで、癒されている/癒されていない、という区別で自己を観察することなんてなかった、至って、てーげー的生き方をされていた方々までも、正に「癒されていない」状態へ手招きしている。

 けれど僕はなにも、今日より明日、一年後よりも十年後の幸せを信じて生きる生き方を否定するつもりはないんだ。そうではなくて、もし、そんな根拠のない進歩を信じて、今を苦しんでいる、今を我慢しているならば、恐らく明日もそのまた明日の進歩を信じ、一年後も十年後の進歩を信じて、苦しみに我慢している生活をしているであろうということが云いたいんだ。

 人は進歩などせずに、ハッピーエンドもなく死んでいく。癒しを求めるよりも、多くの死者たちが自身の生きた様をもってして教えてくれている、至極、当たり前の事実を認めよ!そうすることで、「癒しからてーげーへ」と移乗が可能となる。

 なぜ今日よりも明日が癒されていなければならない必要があるのか?なぜ、5年よりも10年後も生きている必然性があろうか。癒しというが、いったい、癒しは万人にとって画一的なものであるというのであろうか。そうでないなら、癒しをごり押しするものは、癒しについて明確な説明をしなければならない。

 けれども、これまで僕が説明してきたとおり、てーげーは、いかなる区別をも受け入れるという点において、てーげーとは何かと説明する必要はない。(2)

 僕には、もうあまり時間が残されていないように思われるが、それはいたって僕にとって、てーげーであるんだ。僕が如何なる区別を区別して生きたかを観察することで(3)、真理だとかハッピーエンドを追い求め苦しみ生きている方がいらっしゃるのならば、その方々のために手記として残し、癒しなんて必要としないで、てーげーに生きたものがいる、そしてその者の存在なんて微小であり、その微小さをそのまま極当たり前として受け入れた、てーげーなるものがいたということを示そうと思う。

【註】
(1)進歩という白昼夢批判はこれを身よ。
http://jibun.seesaa.net/article/11405983.html#more
http://jibun.seesaa.net/article/8808145.html#more

(2)てーげーの内容さを問うことの不毛さに関してはこれを見よ。http://jibun.seesaa.net/article/12262569.html#more
http://jibun.seesaa.net/article/11962456.html#more
http://jibun.seesaa.net/article/11210458.html#more
http://jibun.seesaa.net/article/8444607.html(このテクストは判りやすく書かれている)

(3)観察の観察については、宗教と関連して書いている。
http://jibun.seesaa.net/article/10314035.html


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