文士にジェントルマン期待してもって話しの話、或いは島田雅彦、中原昌也論

 文士に良心や道徳を問う程、馬鹿馬鹿しい話はないぜ。おめえらも、そう思わねえか?至って道徳的紳士、皆が考える価値みていなの、良いとか悪いとか、いうことをわきまえてるジェントルマンが書いたものなんて、全く面白みのないものだろうよ。

 文学のお決まりのテーマなんて、女、自殺、借金、ドラッグ、精神薄弱とまあ、挙げればいくらでも挙げることができるが、どこか通低するこれらの文学的テーマは、「ろくでなし」ということであって、そんな、ろくでもない最低の人間が書いているから、こわおもしろいで、ちょっと覗き見したくなるんだよ、読者はさ。

 まあ、一般の方が読んだら、島田のテクストは、ただの中傷と思うわなあ、けれど、そんなものにも書き手は読者を必ず意識しているわけど、中傷文をいかに芸術性と接合させ、破綻していないかに細心の注意を払っているはずだぜ。実際、島田の文章は、君たちはただの誹謗中傷と読むか?俺は面白くよめたけどね。誹謗中傷したいのなら、端的に直接、罵詈雑言を書けばいいわけよ。けれど、俺があれを文学として読むってのはさ、直接に誹謗すること書かないで、読者に文字というメディアを用いて、想像を或いは創造を喚起せしめているってことな。さらには、いい物の条件として、読者の想像をうらぎることなんだけど、そこまではいってはないよな。いい物の条件ってのは、誰もが次にくる展開を想像するものをそのまんま書かないで、読者が想像する展開をうらぎるってことな。あのよ、素人が書く小説って、最後に登場人物を殺しておしまいって、そりゃー、ちょっと読者をびびらせるような気もしないこともないわなあ、けどよ、そんな結末の文学が過去どれだけあったか思い返してみろよ、つまり、それこそ、読者の想像域で終わってる、破綻しているものということになるわけね。
 だから、あの島田のテクストは誹謗中傷なんかではなく、イヤミたらたらだけど、全部をかかないよね、それは、読者に「想像」「創造」という読むことの醍醐味へ接合させようと書いていることが判るわけな、もちろん書き手の意図はしんねーぜ?確かに、島田は誹謗中傷を意図して書いたのかも知れないけど、そんなの、文士は「ろくでなし」なんだから「最低の人間」なんだから、いちいちそういう点をついても、それは文士のまず、前提なわけで、限りなく不毛なものとなるわけよ。けれどさ、島田のかっこつけと呑んだ時「そりゃ、僕だって、どれだけ超自我を形成しようと努力したか・・」と嘆いていたぜ、ろくでなしも少しは、その範疇から抜け出すことに努力してみたらしいが、だめなものはだめなのだなー。
 だけどよ、小説を書くことって、これ読んでる者のほとんどは、恵まれた才能によって書かれてるなんて考えてなーい?そんな天恵なんてねーからよ、ぜってー。小説って、あんた、思いついたことを、つらつらと書き、それは才能であって、そのつらつら文が世にたまたま認められたら名作になるってことなんか、全くねーからな。小説は、つらつら書いてはい、どうぞ、なんてもんではなく、考えぬかえた戦略と構造、文体のめちゃめちゃ知的作業のダイナミズムの中で生まれ、それは、才能でサクって書くものなんてものではなく、へとへとになるほど、考え抜かれて書かれた、自殺する文士続出的、知的作業が要求され、それには緻密な思考かつ苦悶が当然伴うことになる。

 あ、ところでよ、文士が自殺するようになったのは近代に入ってからなわけ、近代以前は小説なんてものは、「戯作」と云われており、曲亭馬琴南総里見八犬伝は全9輯106冊に及ぶ、超大作なわけだけども、冒頭で女、子供の暇つぶしにでもなればありがたい、みたいな事書いてるのさ、それってやっぱ「戯作」は「戯作」だったてことな。小説は芸術活動なんて、読者はもちろん書いている本人さえ気がついていなかったってこと。文学史のいろは、になってしまうけどよ、坪内のおっちゃんなんかが出てきて、『小説神髄』みたいな大著で文学を理論化しようとして、その後の明治20年代の言文一致運動でもって、小説が広く読まれるようになることで、文士が大衆に認められしかも何だかすごく高尚なことをやっている人たちという目と、文士自身も文学が思想や芸術といったものと勘違いか、どうか判らんが自身を洗脳しちゃっうわけね。そんでもって文学のために死ぬみたいな自意識の塊さんが続出するわけだけどな、あとから説明すると思う、きっと、多分、だけど島田が中原を「最後の文士」というのは的を外しているのは、まさに上記した点に関係してるのさ。

 そうそう文士はろくでなしって話だったな。だから、「ろくでなし」というのは文士を構成する一つの大きな要素ではあるけれども、けれどよ、それだけでは文士なんかやっていけねえての話。ああ、またそれた、すみません。叩かないでね。ろくでなし、最低なんて文士には、当たり前のことで、けれどあの島田が書いたものは、誹謗中傷を意図していても、それを文学として読ませようとしているよな、上述した点において、そこを見ないとだめよってこと。

 中原ねー、三島賞とった『あらゆる場所に花束が…』は、面白みのあるものではないが、それでも、福田氏は薦めてたよな確か、俺、これ、ほんと裏取りしないで、脳からでてくるものをロボットになって書いてるだけだから、皆様、間違っていたらごめんなさいなんて、どーでもいいや。福田氏が薦めるものって、大抵、島田氏も薦めてるのよ。福田氏が『作家の値打ち』で売れっ子作家を格付けしてるのだけど、あの評価は当たっているか?と聞いたことあるんだけどな、島田氏にな。やはり同意してたな。二人の評価って案外一致してんのよ。こえは二人が仲良しおともだちってこと、ではなくて、やはり、文芸にも判る人には判る、共有できるいい物、破綻している物の基準があり、二人はその点で一致しているわけ。確か、島田氏も中原の『あらゆる場所に・・』を推していたと思うぜ。

 でもよ、中原ってさ、島田のいう「最後の文士」ではないわな。そんなのりではないね。小林の著書の中で、お金もらえるなら書くことにこだわらないし、たまたまお金もらえたから書いている、みたいなこと云ってるのね、また、小林は逢ったことないけど、根が真面目なんだろうな、中原は逢ったことあるよ、もちろん、あいつは俺のことしらねーけどな。でさ、小林は中原の云うこと、全く理解できない、え?、なぜ?みたく、キョトンとしていて、お話が全く噛合っていないのが、まじ笑えてから、皆さん、これはお勧め、よんでごらん、中原の、のりといか、書くことのスタンスというのもつかめるしな。リンクはらん、おまえで調べて見つけろ。その位の労力はやれ。今、みんなアマゾンとかにリンクはってて、あれって見てくれの問題だろ、俺も少しやったけど、金なんて二束三文よ。ヒントはさ「小林」を「小林秀雄」と思っちゃった奴、君、君は既に終わってる!

 小林の話な。小林は小説書くくらいだから、何か訴えたいことあるんだろうと信じきっており、真面目にそんなこと訪ねたりするわけ、けれど中原はそんなのねーよ的にたんたんとしている。小林は、何とか自分の予期する方向に話を持って行こうとするのだけど、全て破綻しているわけ。それって、やっぱ中原自身も「品性」なんて島田氏に向けて云えるような奴ではなく、凡人には理解できない「ろくでなし」の素養があり、実際、この前、一緒に飲んだ編集者は50万貸したけど、いつ返ってくるかわからないって云ってたのね。だけど50万渡す理由は明確であり、中原も、ろくでなしだけど、だが、もの書きとしての才能を認めているからなわけ。中原のコラムなんて読んでごらんなさい、皆さん。ほんと笑えるから。文字という拙いメディアで人を笑わせる力量があるってのは、才能があるということ。けれど、それと食えるとは話は、文学が死んでる、且つ日本語という小さな市場では困難なわけな。中原の書くスタンスっていうのは、上記で少し触れたけど非常に柔軟なわけ、本当は音楽で食っていきたいんだろうよ本人は、けど書けばさ、さやかだが金が入ってくるから、書いている。このスタンスって、近代には入り、三島とか川端の死ぐらいまでの、文士の思考とは正反対なわけよね。

 かりに中原が死んだとするわなー、その死は文学のためなんかではなくて、お金がなくなって気づいたら飢え死にしちゃってた的だと思うぜ。いいかい、そこがさ「最後の文士」とは相違する点であり、文学にうんちくなんて垂れない中原の文学的魅力なわけさ。


参:http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20051209

ブログランキングに参加中。推薦クリックお頼み申す
人気blogランキングへ