しかしさあ、ルーマンだめだしする奴は多いけど・・

 多いけどさ、まじでこれまでに何人俺に、ルーマンだめだし、してきたよ。おめえ、これまでのだめだししてきた奴の読んでないのというくらい、だめだし多いけど、俺なんかにルーマンのだめだししているおまえ自身が悲しいくらいだめだ、といこと。ほんと、俺なんて、ルーマン読んでないし、読んでるよ、でもそんなの真摯に学システムで研究している方に比べるとぜんぜんよ。何度、俺の云ってることがルーマンの理論と思ったら、あんた赤っ恥の対象になること大だからっていったかな。俺がルーマンの理論を援用して書けるのは、アカデミズムなんか全く気にしていないからであり、もし、がっこ入った当初は院にいって学者になるなんて、あまっちょろいこと考えてたけど、そ、もし、院に上がって専門にルーマンやるようになってたらさ、こんなブログで書いているようなこと書けねえと思うよ。書いてたかもだけど。

 それは、哲学科の斉藤ケイテンちゃん、との出逢いが大きく、いや、実際にはあったことないけど、『思考の臨界』もすごいけどよ、『フッサールの期限への哲学』とか、ちょっと馬場さんの『ルーマンの社会理論』と似てるとこあるよな。普通に読んだら、普通に読みとばせるのだけど、一旦、カミカミ、ハムハムしだしたら、めちゃめちゃ奥が深く、しかも、それを端的に書ける技、あれを読むとさ、竹田青嗣フッサールについて、いろいろ書いてるけど、自己の理論を構築しようとしている点はかうが、うすっぺらく感じてならないのは俺だけか?あっ、eculusくんはレヴィナスやってるみていだけど、ケイテンを読んでるのかなー?そう院の話な、俺はもう哲学研究科だなと思ってたのね、よしみち君を読んでね。それに、いい人らしいから、講義は大変とは聞いたことがあるが、けど結構自由にルーマンを哲学研でもやらせてくれっかなとか思ってたしね。あの当時はぜんぜん判っていなかったから、別にルーマンじゃなくてもいいや、ってのもありーの、でも、いい加減な奴で完ぺき主義者ってほんと、たちが悪くてさ、判んないと、気になって使用がない、だから読んで挫折、ほったらかしてる、また気になる、読む、判んない、挫折、破り棄てる。ってこと繰り返してきたのが、ルーマンと接する実情なんだよな。

 それから俺の社会学会の認識はがっこ入ったとこで止まってんのね。あの、わかるシリーズの『社会学がわかる』とかさ、これ前に書いたのかな?書いてたらわりい。ほんと、書いたことも忘れちゃうからね、『日本の知識人』とか『学問の鉄人』とか出版された頃、あの頃までは、日本の社会学者のもの読んでたし、社会学だけじゃなくてさ、誰がどこのがっこで、どんな研究してて、だれと仲いいとか把握してたし、たまに、がっこにもぐって講義とか聞いてたし、学者に会いに行って話ししたりとかさ、してたわけ、ちょうど、池袋に住んでたから、立教にもぐってさ、あの時は宮島さん『自殺論』訳したおっさんな、デュルケムやってた人とか、あと吉見さんも教えにきてたからもぐってさ、そうだね、吉見さんが積極的に発言して勢いあるなーと思い出した頃で俺の中の社会学会の知識は止まってるわけ。その後、文芸のほうに傾いていっちゃったし、哲学にも向いていったし、日本の社会学者のは読まないが、その他のいろんな分野の濫読期に入り、社会学の古典とか、だいたいもう読んでたから、社会学はいいや、ましてや日本の社会学者なんて、日本語の市場が1億2000万人しかないんだから、最低日本だけで考えてる場合だけどな、一部の有能な方々は別だぜ、だけどその他の小さな日本というコミュニティで認められてる奴のなんてどうでもよくなっちゃったわけ。

 そうだね、がっこに入る少し前くらいにドゥルーズの『アンチ・オイディプス』読んで、なんじゃー、こりゃー?だよね。全く判んねえ。市倉の訳字の言語感覚は、ださかっこいい的にイケテルけど、翻訳はいけてねえよな。どうやって、いけてねえのが、判るかってーと、英語で読むわけよ。そーするとすんなり入ってくる。それで、ああ、これ判んないのは、翻訳がだめなのねと判る。今では、二次的文献もたくさん出てるけど、あの時はそんなになかったわけ、市倉の『現代フランス思想への誘い』ってのが、あったけど、絶版されてて、さがしてね読むけど、これまたわかんねえ。もしかしたら、こいつがドゥルーズわかんねえんじゃねーかという結論に強引にもっていき、でも、ポストモダンってのは、こういうのりなんだなってのがつかめたのは、大きかった。つまり判んないように破綻してるか、してないかは、別としていくらでも解釈可能なように読む。ほとんどの人はテクストには答えがあり、それを見つけることが読書と思ってるけど、そうじゃなくて、自分の読みたいように読めばいいんだというのを教えてくれたのが、ドゥルーズなわけ。そんなこんなで日本の小粒は、全く興味ないって感じになり、ますます社会学は読まなくなったね、日本の学者が書いたものは。付け加えておくけどよ、あの著書はガタリの存在を忘れたらだめだからね、どうやって、共著としてあれが書かれたかってのが結構話題になってさ、『現代思想』特集でさ、ガタリがそれに答えてるよ。それも自分で見つけろ。読みたいなら。その位の努力してさ、やっとこさ見つけて、その作業ってすごく大切なわけ、学ぶモチベーションの生成にね。ヒントは80年代をさがせ。そうするとこういうことが判るのね、あの書は、めちゃくちゃだったってこと。いや、まじで、だって、書き方の体裁は書簡を送りあい、でも頻繁に会い、議論を戦わす。それは何時感にも及ぶのは当たり前で、その中で二人はいろんな、概念が提示されるよな、あの概念理解も同じようには共有していなかったのがわかるのね、そういう意味でめちゃくちゃなんだけど、それがだめかというわけではないよな。まあ、興味ある奴は探して読んでみ。
 社会学離れは、小熊との出逢いも大きいな、こいつ、ふるぼっこしよと思ったことが何度あるか、あのコロコロコミックって偉いの、やっぱ論文でも、わくわくして読める論文とか著書とかあるよねー。でも、小熊の引用、引用、ばかりで本をコロコロコミック化しやがって、でもまあ、歴史学者って云ってもいいと思うんだけど、そうすりゃ、やっぱ資料は提示しなけりゃならんのは、わかるが、あっ判った、人間的に嫌いなんだ。これは、ちゃんと確かめ済みだけど、小熊は理論使わないよね、でも、ちゃんと理論のうわっつらというか、社会学理論史っていうのは、おさえてあるけど、やっぱ深いところ突っ込んで質問したら答えられないからね。あとね、岩波出身ってのは知ってるよね。まずね、岩波になんでもいいや、著書の在庫とか、だしてるソフトのこととか質問の電話してごらん、もう、こいつら自分が偉いんだって信じて疑うことない無礼な奴らだよ。こいつらも、ふるぼっこ対象。

 これね、あまり知られてないから、言うね。小熊が岩波にいた時の担当は、『優しいサヨクのための嬉遊曲』の島田雅彦なわけさ、なんとなく小熊のバックグランドみたいのが見えてくるでしょ。島田のおっさんのかっこつけ、とも呑んだことあるんだけど、このネタは島田氏本人から聞いたから。でも、当時から頭の回転は抜群に速かったとは云ってたけど、やっぱ、営利を求める企業では、あの正確で友達はいたのかな?でも、止めて院に入りなおして、才能を開花させたからよかったね。けれど、これ、俺、裏取りなしにそのまんま頭からでてきた言葉をタイプしてるマシーンになってるだけだから、間違ってたらごめんよ。今は、東大の研究科名も変わってるけど、そうそうたる社会学者を輩出したのは、宮台さんの出身の社会学研究科ね、今は名前変わってる。富永も清水も大澤も橋爪ももう、一杯そっから出てるんだけど所謂、本郷といわれる側で、東大はある時になにをとちくるったか、社会科学を総合する学部をつくろうとするのね、駒場の方にね、それに西部とか見田宗介とかが参加して、そんでもってあの、西部さんてさ、人情あつい人だからさ、能力よりも自分の好き嫌いというか、気に入った奴を評価する傾向があり、『チベットモーツアルト』の中沢新一、その後、オームの件で、散々批判対象になったんだけど、あいつを招こうとするわけよ、けれども学術という点で実績がないということで、反対されそれで西部は切れて東大辞めるのだけど、その事も本が出てるから自分で探せ。もう、ぼろくそ見田宗介の文句とかいってて、パロディ本として、笑って読めるから。小熊はそっちのほう出身なのね。やっぱ、本郷と比べて下に見られちゃうってとこあるわけよ。そんなことどーでもいいけどさ、西部ね、俺は嫌いなんだけど、なぜ嫌いかというと、あの本でさ、中沢を招くと約束したが、守れなかったから、自分も辞めると正当化しちゃうわけね。けれど、ここからは想像なんだけど、まあ著作でなんとか食えていけるし、もう皆と仲悪くて、嫌われ者なわけ、だから実際は辞めたかったと思うのね、それを中沢を利用して、辞めるわなー。やっぱ、東大の教授職を体制に反抗して辞めたとなると、はくが付くわけ、実際、それで名も売れた面があると思うぜ、以前よりもね。判るでしょあの人がこまったさんなのは、朝なまで、突然、退席しちゃうとか、もう皆相手にしてないのね、でも師匠は律儀というか、仲良くしてるんだなー。宮崎も、結局は西部に切れてさ、自己の著書の帯びに宣伝文句、最高の賛辞かいてもらっといてだよ、仲たがいするんだけど、その場に師匠がいてね、何とか場を治めようと大変だったって、愚痴ってたのはオフレコね。

 何の話してたんだっけ?まいいや、文系で博士号をもらえるのは、よほど優秀じゃないともらえないわけ、戦後で東大の社会学研究科から博士号もらったのは数人だからね。その内の一人に宮台さん、『権力の予期理論』書いて、もらったわけ、富永さんも、多分そうだったかな、『社会変動理論』な、もう、引っ越すので、全部文献すてちゃってさ、わかんないの。あと、清水幾太郎もそうかも、オーギュスト・コントの研究してね。今、コントの研究することなんて、ありえねーよな。でも、清水の時代も既にあり得なかったわけね、清水は、ああ、清水は多分、博士課程までいってねかったから、博士号もらってらいかもね、でも、昔は博士課程まで上がんなくても、ぜんぜん大学の教員してたからね、清水は、あの社会学研究科の助手になるんだけどさ、いやでいやでたまんなかったらしいよ。それはね、やっぱ研究室の雰囲気って研究するのにほんと大切なのは、わかるよなー、けれど、前の投稿の中島さんもそうだけど、人間関係ってとこで清水は相当いやだったらしい。岩波から全集がでてるから読んでごらん。。でも、清水のオーギュスト・コントの研究は、コントなんてあり得ない時代になっていたにも関わらず、評価されたわけだけど。加筆修正してると思うが岩波新書で読めるよ、そのまんまのタイトルで。

 で、またまた、タイトルと変わってしまったのだけど内容がさ、例えばよ、今、ルーマンが生きていてベムの目の前にいるとするさー、あんた、だめだしできんのか?ってはなし。せいぜい、もじもじくんで、いっひ、シュチュディーレ ドイチュって、ニヤニヤ笑って云えるぐらいが関の山だろうぜ。だって、俺、ハーバーマスにさえ、だめだしするのはやっぱできねえもん。思想の違いと研究の業績を混同して考えて、大口たたくなってこと。それは、俺、日本の学者、識者でも同じことで、ムカつく奴でも、考え方がちがっても、一言、あいつはだめですますってことはできないし、だめだしする時はやっぱ念入りに考えぬかれた、テクストでもって、あんた、だからだめよと、勝負しなきゃ、って思うぜ。やべ、俺、いい人に見られたらやだなー。ベムのばーか、ばーか、おわり。

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