馬鹿リターン或いは無限遡行の矛盾返し

# 三原論主義者 『 あのね。全ての思考は究極的に矛盾しているので、相手の矛盾をついても意味が無い。結局、己も矛盾しているから。人間の論理自体の中に矛盾が含まれている。論理とは、矛盾/無矛盾という区別で観察することなんだ。これが形式論理学のコードだ。このように矛盾を原理とするわけさ。そのようなコードにかかわりなく叫ぶ者に対して矛盾もへちくれもないと思う次第ね。これ・・・。感想文に対する攻撃は、論理でもってやってはいかんよ。感想文には、論理はないわけだから。小林よしのり的作法で対処するのが一番ね。感情のみが思考と違って矛盾とは無縁なんね。感想文は感情で処理しよう。もちろん、怒りの感情だけじゃないぞ。怒りズムだけでは芸は無い。とほほ・・・。』 (2006/03/26 20:50)
# 三原論主義者 『 何をぬかす。形式論理学を俺が区別したら、4つのパターンも矛盾律に集約されるのよ。だから、全く問題なしね。二元コードで自由に観察せよと言ったのは君でしょ。俺が形式論理学矛盾律のコードで観察してどこが悪いのかね。4つのパターンがあるから、4つの二元コードで観察せよというわけかいな。一挙に4つでできるかいな。形式論理学の構造は、矛盾律だけで、観察して俺の自由。それともなにかい。答えてもらおう。論理的に。形式論理学の構造はどんな二元コードで観察してたらいいのか。それをこた』 (2006/03/28 21:28)

# 三原論主義者 『続き、それを答えてくれ、そして、その論理的根拠を言いたまえ。
 それと、君の言う論理は、形式論理学ではなく、どの論理学なのか。
 あと、友達をつくる場所というが、コメントないね。一切という人しか友達はいないのか?』 (2006/03/28 21:33)

すんげー!ばか!きゃははは!どんどん話し変わってるねー。あの、あらたな区別を投入することはおすすめだけど、それが何でもありにはならないのは、ファースト・オーダーの観察とセカンド・オーダーの観察の不断ない観察という形式があるからだよねー。ファースト・オーダーでは、区別のもう一方を見ることができないって死ぬほど説明してきたけど、区別の両項とも見ているというのは、セカンド・オーダーの観察だよね。メタなレベルで、形式論理学の区別は矛盾/無矛盾と宣言してしまっちゃったんだよねー。君の世界で一生止まっていればいいのだけど、けれど、君の形式論理学の観察は更なる観察に曝されるわけだよねー。その観察は君の区別を見るという意味でメタなんだよねー、これを読んで君の観察の観察をしたものは、限りなく君はあんぽんたんと観察するだろうねー、だから、いかなる区別を投入することが、何でもありってはならないのねー。君が一生だれともコミュニケーションしないならば別だけれども。そうすれば、君は君の観察の観察を観察することができないから、アンポンタンをアンポンタンだとは認識しないでいられるよねー、だけど、ぜってー、また見に来るのは判るから、あああ、あんぽんたんな観察ということを知っちゃったねー。なんでもありな観察は、コミュニケーションに頓挫をきたすものだから。形式論理学は矛盾/無矛盾という区別で観察するなんて云ってると、ぜってー後続するコミュニケーションは接続できねーから、俺よりも友だちがいなくなるってことになるねー。

それから俺、悪いなんていってねーぜ。それって至って君の生き方の問題であり、盲目的に俺には興味ないことだから。馬鹿の大ばかだとは観察しちゃっただけの話しなのねー。

あっそれから、来てくれるの判ってたけど、これってもうお決まりのパターンであってねー、自尊心がキズついちゃった人って必ず現れるのだけど、結局、さらにキズつくことになり帰っていくのがこれまたお決まりのパターンなのだけれども君はどうかなー?

あれ、「根拠を示せって」、矛盾だらけだから論理とか根拠とか意味をなさないと云ったのは君のほうじゃなかったのかなー、これこそ矛盾だけれども。これもコミュニケーションの接続に十分、頓挫をきたす可能性大だよねー。それもまた矛盾だらけだから意味はないんだと自己暗示して、一生、一人で生きていけば、コミュニケーションの機会もなく矛盾は君にとって矛盾ではないと無理やり君自身をだすことに成功するかもだけど、ほら、また、俺よりも友達できない状況になっちゃうよねー。これもまた、矛盾だらけだからいいのだというと・・・あああ、無限後退に陥っちゃうよねー、ってこれもまた矛盾だらけだからいいのだと宣言してしまうとーーーーって・・・

はい、無限後退の矛盾返しでした。ジャン。

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