「東京タワー」について、でもないや、或いはサロンとフクちゃん

 純文学、勢いあるなーなんて勘違いすんなよ。150万部か。純文学でそれだけ売れているということで騒がれているだけなんだから。違うメディアで云えば150万部なんて、どうってことないでしょ。それで他の純文学も売れてるのかって云えば、正しく本来の姿でもって、れっきとして売れていないから。ほんと、君たちは信じないかも知んないが、純文学で君、何人のメジャーどころの名前を挙げられるよ?皆、読まないから10人も恐らくは挙がらないわな、文学少女でないかぎり。7,8人でも云えたら偉い。はい、そのぐらいなものなのよ。書くことだけで飯を食えているのはね。

 純文学といったら、普通は第3の新人とか三島までを思い浮かべるよな。「私、純文学を読むのが趣味なんです」という者がいたら、ああ、川端かな?志賀かな?鴎外を読んでるのかなって普通に想っちゃうよなー。それってもう、50年とか100年近く時を経た作品であり、未だに純文学というとそんな亡霊たちの作品を想像してしまう。

 そういうこと、そういうことなんだよ。「純文学が死んでる」ということが意味することは。

 「東京タワー」の話しか。ああ読んでないから判んない。読むとは想うけど、いつになるかなー?でもこれは批評家の間では中々評判いいみたいだね。でもリリーフランキーって文士ではないでしょ。文士だと純文学書こうとしてしまい破綻するのだけど、あの人は文学しなくても、食っていけるよねー。そういうスタンスね、つまりおいらは文士、世に金字塔と呼ばれる作品を残すんだって、四畳半の裸電球の下でうずく憂悶抱えながら書いてないっていうスタンスね。なんかそういうところは共感できるな。読んでないけど。

 師匠も褒めてたよね。あの例えば音楽でも映画でも文学でもいいけど、何がいいか判らない場合は、自分だけの信頼する評論家を見つけるのが一つの方法だ。いい作品と出会うために。これも師匠からぱくったのだけど。俺の場合は文学に関しては、完全に師匠の評価を信頼してて、いいというものはほぼ必ず読む。ちなみに師匠の映画の先生は、浅田なんだってさ。浅田がいいというものは必ず観てる。前にも書いたけど、芸術の評価なんて相対的なんだと想ってしまいがちなんだけど、やはりいいものは、よくて。その筋の尊敬すべき方々の評価は大体一致してるしね。

 まー、いいものという価値を創り、作家に影響を与えるのには「サロン」といったものが必要なんだけど、師匠は「サロン」を復活させようとしているよね。それって仲間内寄り添って、既得権益を守ることじゃん!ていう批判もあると想うが、けれど日本の純文学が読まれ、大衆が思想の拠り所としたような時代は、「サロン」がいくつもあり、その中で喧々諤々することで作家はインスパイヤーされいい作品を書くことができたし。その「いいもの」「いい作品」っていう価値意識を共有していないと、その価値をぶち壊して、新たな「いいもの」「いい作品」を創りだす足場がないんだな。

 例えば19cにボードレールが現れ「悪の華」はフランスの近代詩の象徴になるわけだけど、当作品は、新たな「価値」を創造したことに気がつかない者達に、さんざんと批判される。公衆道徳を乱す元凶だとしてね。けれど道徳的芸術なんてものがあるとしたら何の面白みもないだろうよ。翻って、芸術の価値を判断できる批評家たちからは絶大の賛辞を受け、象徴主義はその後の芸術に大きな影響を与えたわけだけど、その「サロン」が最も盛んだったのは当のフランスだったということは何となく頷けるよな。おわり

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