デリダとてーげー革命

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リダが死去したことを知りました。有能かつ先鋭的な哲学者の死によって、ポスト構造主義は終焉を迎えるのだろうか。折りしも、私は「思想家たちの亡霊」という不気味なタイトルで、まず最初にデリダについて書いたばかりである。なぜデリダを選んだのか自問してみても、大した理由が思い浮かばない。一つ云えるとすれば、デリダという人は思想について書くとなると最も厄介な哲学者の内の一人であるということである。東浩紀氏が書いた存在論的、郵便的のおかげで、デリダの難解且つ深淵な思想は、一般に知られることとなったが、それでもいったいどれだけの学者、批評家がデリダの思想を語りうるかと云えば、甚だ心許ない。それだけデリダの思想は理解という境界線を遼に超越したものなのだ。又、デリダはその「理解」ということをも排除しようとした哲学者であるのだが。私は思想について書くとなると最も困難であろう哲学者から無意識の内に書こうとしたのやも知れぬ。
 
 

思想家たちの亡霊」が目的とするところは、初学者のために思想の重要なエッセンスだけを短文に纏めるということなのだが、この短文に纏めることがまた厄介なのである。デリダの思想なんて初めから終わりまで重要に思える。だらだらと原書を引用しつつ書きなぐることは容易であるが、エッセンスだけを抜き取り、そして私なりの解釈で、しかも学界が共有する価値から乖離せずに簡潔明快に短文に収めるのには、知的好奇心を揺さぶられるだけ、それだけ大いに精神を疲弊させることとなった。「思想家たちの亡霊」で、どれくらいの思想家を紹介できるかは、偏に私の精神がいつまで正常を保っていてくれるかに懸かっている。その上、私は小説を何本か別に書いていて、小説を書き上げることに最も力を注ぐつもりなので、デリダ以降新たな思想家が書き加えられることは、もしかしたらないかも知れない。それぐらいまでに私は「思想家たちの亡霊」を書き始めたことを後悔している。
 
れでもなぜ書くことをやめないかと云えば、私はやはり書くことしかできないのであり、又、書くことが好きなのである。たかが一日に数十人の目にしかとまらないサイトで書くことが何の意味があろうかと頭をひねられる方もおいでかも知れない。けれど数十人の目にしかとまらないから書けるということがあるし、私は私の思考を現前したものを読んでくださった少人数の方々を度外視してはいないのである。実を云えば読んでいただけるのなら、数人でも構わないとさえ思う。数人の方にでも、私の思考がインパクトを持って伝わったならば、それは鼠講のごとく或いは知らぬ間に白蟻が家屋を駆逐してしまうように、私の思考は確実に社会に浸透していくはずである。
 
日記は「てーげー革命」のために書かれていたのではないかと思う。てーげー革命は、てーげーの性質上、革命をもってして達成されるものではない。それこそ静寂な湖面に一かけらの石粒を投げ入れたことにシンクロして拡張していく波紋のようなものである。それは最初のインパクトは些細なものやも知れないが、だが確かなそして確固としたインパクトであり、それなしには湖岸に到達する波紋を派生さすことはできない。私は波紋となるための、ちっぽけな石粒になりたい。てーげー主義が鬱系の方々に云われているところを見ると、私は確実に静寂な湖面を動揺さすことに成功したと云えよう。それは主体の喪失を云ったデリダの思想のように、私という主体が消去されていようとも。


記:「書くということ」
 
やー、ホセ・フェリシアーノって最高っすね。もうギタテクには圧巻ね。どなたかアルバム持っていたら、おいらにコピーしておくれ。
 
っへっヘックチョ・・、お〜すまねいねー。身体にガタがきてねー、労働と申しましたか、あの額に汗たらして周囲に神経を研ぎ澄まし、上目使いにその眼はやや細め、微々たれぎみに背筋に悪寒の感覚を覚えながら、口に出して云うのも恥ずかしい表現をするならば、あの、ゲゼルシャフト的コミュニケーションを取り結ぶものでございます。
 
い、おいら、そいつが苦手というかムリというか抹消というか、とにかくも出来ませんのです。
笑ってはおいけませんよ、あなた。おいらにとっては人生常に生存の危機なのでございますから。キャピタリズムというものは、労働できない者には非常に酷な社会なのでございました。だ、だから、お金貸して下さい。えっ?何に使うのかって?だからー、ホセ・フェリシアーノのアルバム買うんだもん。私、我がままだと申しますか?あなた、生きていくのに必要な食料と芸術を両天秤するなんて、野暮でございますよ。だからお金ください。話し変わってるってー、いいの。
 
題に入らせてもらいましょうかね。後記ですから何か先の駄文と関係づけなければいけないのでしょ。これと云って主張すべきこともないのですがね。「書く」ということなんです。えー、書くという営みは誠にに奥の深いものでありましてね、これ読まれている方でも書くことは、でー嫌いという紳士淑女諸君もおいででしょう?なーんだか頭こんがらがってしまって、キーボードぶち壊したくなるか、鉛筆をカッターナイフで千切りしたくなりません?ああ昨今では、書くことに紙と鉛筆持ち出してくるセピア色したおセンチさんもいらっしゃいませんか。そうですね、今では「書く」ことは「打つ」ことになってしまって、ブラインドタッチだなんてね、それが嫌で本当に「鬱」になってしまう方もおいででしょうよ、実際。
 
すから書くことに対する不快感というか嫌悪感が一般の方の中には少なからずあるとの様で、その書く作業への拒絶が、どういった思考経路で勘違いしてしまったのか、つまりは兎に角もう書いてる奴は頭が良くて、すげーんだ、という発想というか狂気じみた思想と云ってもよいくらい、書くことを不得手とする方が奴隷根性丸出し状態なわけで。
 
かにですよ、書く作業は頭脳や知識、ちょっとした思想みたいなものも必要ですから、頭よくて、すげー奴なんだというのも、なまじっか間違いとは云えないのですが、しかしですね書けばよいってものでもないわけですよ。ネットが発達して、ど素人でも世界へ向けてメッセージを発信できるようにはなったが、以前では書くはずもなかった人達がそのアッタマいいーというラベルをお頭に貼っていただきたい気持ちで、殺してやりたくなるぐらい下らんメッセージをだらだら、長々と書いてる。けれど本人は他人の迷惑顧みずエリート気分っていう輩が少なくないのですねー。
 
った事に、この発想はエリートにもありましてね、所謂、「長文幻想」と云って置きますが、兎に角も長い論文や、文章で構成された著書は偉いんだと妄想されているエリートもまま居るわけなんです。本当に困ったさんなのは、こういう種族でありまして、論文なんてものはある主張を他人に納得させる道具でありまして、それ相応の正当性があれば短ければ短い方がよい。よっぽど合理的である。翻ってみると長々とした論文のほうが、説得力が乏しく要するに駄目論文だということにも成りかねない訳ですよ。それをしたり顔でコロコロコミックみたく分厚い本を書く学者どもがおるんですわ。小熊なんて云う世には歩く百科事典と評されているような奴も、おいらなんかが云わせてもらうと困ったさんの一人でございましょう。
 
くという行為は常に読み手を意識すべきでありまして、書く側にも目的は様々あるのでしょうが、その目的達成のためには文章は簡潔明快のほうが即ち読み手に対しての親切心というやつで、この事実を理解しておられる方は非常に少ない。長文幻想がありますから、長々としたものは確かに凄い事云っているような気がしてきますよねー、こちらも。凄いという表現は語弊があるかも知れませんので、文章を書く上でより難易度が上がるのは、自分の主張を短文で織り上げ説得力を尚も維持している文章になります。換言すると長々と文章綴るよりも、短く簡潔に書くほうがよっぽど難しいのですね。
 
学者くんのように名が売れていれば読んでくれる者もおりましょうが、おいらみたく世俗の衆が、あんなものを書くと誰も読んではくださらぬという結果になってしまい、故にどれだけ短い文章の中に説得力のある主張ができるかが大きな課題となってくる訳です。恐らく一つの文章で400字詰め原稿用紙5枚が他人が読んでくれるか否かのデッドラインでしょうね。5枚では長すぎますね、おいらなんかは3枚から4枚で書き上げることに勝負を懸けるわけですね。それ以上超えてしまうと、他人には顧みられることなく、努力も泡と帰してしまいます。
 
文幻想に対する異議の表れとして「思想家たちの亡霊」を書いてみようという経緯があり、あのデリダ論は読むのは難解ですが、命一杯、我慢汁だしながら試行錯誤して書いたのですね。深淵な思想を端的に書くという、ある意味矛盾した行為は血反吐はく思いですよ。それでも短く書かねば読んでもらえないから、これでもかという気概で短文に主張を収めようとする。
 
リダについて書いてみて、おいら改めて短文を書くことに肝を冷やしたのでございました。えっ?5枚超えてるのではないかって?その辺はてーげーで。

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