ジャック・デリダ

 我々には真なるものを求めてしまう性癖があるようだ。知性を具えた偉大な哲学者達も、その例に当てはまる。プラトンアリストテレスからヘーゲルに到る哲学史の系譜は、虚しい真理探しの営みだったと云える。
 
 デリダは同一性への憧憬が齎す頽廃を言語学的な考察から暴露し、それまでの哲学の価値転倒を謀ろうと目論む。
 
 

 ディスクールとは、パロールの一回的な運動をいう。その場限りの運動では、シニフィアンは立ち所に消去され、シニフィエのみが現前化される。
 
 翻って、エクリチュールは、その主体が死んだ後も、オリジナルのテクストは存在し続けるが、もともとのコンテクストは亡霊のごとく彷徨うことになる。つまりエクリチュールにおいて、主体とオリジナルのコンテクストの二重の不在があり、不在性はエクリチュールの無限なる反復可能性を保証するのである。
 
 哲学においてエクリチュールは,ぞんざいな扱いを受けてきた。思想はパロールによって深淵なものに醸造され、エクリチュールは単に醸造されたものを記号化したものに過ぎないと思われていた。デリダは、「ロゴス中心主義」を批判して、エクリチュールの特性を発掘することで、まず、哲学史におけるパロールの優位性に転覆を惹起さすのである。
 
 だが、デリダは単にパロールエクリチュールの二項対立の転換をするのではなく、パロールにおける反復可能性「原エクリチュールにも触れる。パロールも性質は違えどエクリチュールの反復可能性を有している。それは現前性が成り立たない、常に現れては消えていく記号による差異の運動なのである。むろん差異の運動という性質上、同一性は否定される。
 
 またデリダは現前、同一性の形而上学に幕を下ろすために、差延」diffarenceという概念を導入する。差延は原エクリチュールの時間的遅れを伴った、差異の運動である。英語において差異はdifferenceである 。差延と差異はパロールにおいて違いは認められない。両者の差異はエクリチュールによって、初めて認識されのである。この概念から我々はデリダの狡猾とも巧みだとも云えるような、アフォリズムを見出さずにはおれない。
 
 同一性を否定するデリダは、言語の「意味」を如何に考えていたのだろうか。コミュニケーションは常に後続するコミュニケーションに接続される。故、意味は時間的ずれによって、「痕跡」となる。痕跡は決してオリジナルなものではない。それは過去の記憶的再現前化によって生じたものである。つまりは「代補」されたものである。付加し、補われたものなのである。即ち、オリジナルから遊離して彷徨う亡霊が、意味の真の姿なのである。意味は差異と代補の連鎖運動であって、オリジナルに到達することはない。むしろ代補の不可逆性は意味に無限の可能性を与えてくれる。
 
 言語運動とはデリダにとって、代補から代補への連鎖運動、或いは記号から記号へ無限につらなった差異の運動となる。デリダはこの運動を「記号の戯れ」と云う。記号の戯れは、デリダが一貫して主張する同一性への懐疑であり、言語に無限の解釈可能性を指し示すものなのである。
 
 執拗にデリダは新たに概念を創出して、同一性、真理を排除することで戯れの中に言語の新たな可能性を取り出す試みをする。脱構築形而上学が用いた二項対立という図式を転倒したり、ずらしたり、境界をあいまいにすることで無効化する使命を帯びている。脱構築により、もはや意味は決定不可能な状態に陥り、それが故に新たな可能性の彼岸に、自ら迷い込むことになるのだ。
 
 デリダは徹底的にニヒリズムを排した、相対主義者の旗手といえよう。

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