世界を観察する

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 もし、あなたがこの世界の様相を把握したいとする。あなたは、マスメディアの発信する情報を手に入れるか、または、識者の著書を読むだろうか。或いは、実際に行動することで、地下に世界の事象に関係を持つことで、世界がどんな様相を呈しているのかを理解しようとするやも知れませんね。
 
 

 あなたが世界を知りたいと思うのは、今、あなたにとって世界は複雑であり、世界とは何かということが見ることができていないからだと存じます。そうして、あなたは上述したような世界を把握する手段を選択するかも知れない。

 けれども、世界が複雑だということは、世界の観察が別様でもあり得るということであり、その意味でマスメディアの情報も、識者の著作も、直接経験することで得た世界像もまた、別様であり、偶発的なものであるということを示しているのです。

 ですから、私がよく例えに出すように、システムが如何様なものなのかを問うても不毛であるわけです。なぜなら、如何なるものとしてシステムを陳述したとしても、その背後には、如何なる陳述も可能である蓋然性が在している。なぜなら、世界は複雑なのだから。

 我々が世界へと、より高次に近づくことができる術があるとしたら、システムの陳述において、その陳述の背後に陳述されなかった世界像は何であるのかを把握することである。差異理論において、システムは環境との差異(区別)から生じる。システムは区別された一方なのである。そうであるため、我々は自身の観察において、同時に区別されたものと、されなかったものを見ることはできない。我々が当たり前視しているものは、単なる指し示された一方に過ぎない。それは見えざるものがあるために、見ることができ、また見えざるものが見えざるものであるために指し示しを自明なものと捉えるわけである。

 見ることができる空間と見ることができない空間があるということを認識するには、他者の観察を観察することで可能となる。他者は如何なる区別でもって、どちら側をマークしたのか、或いはしなかったのかを観察する、つまり観察を観察し、その観察という作動を回帰的ネットワークとすることで、他者が或いは自分が見ていなかった世界をみることができるようになるのである。

 けれども我々は、世界全体を記述できるような情報処理能力を有していない。だからこそ近代はシステムが機能的に分化することで、限定的に独自の機能システムの観点から世界へと関係を持とうとするのである。だが我々は世界を記述するパラドキシカルな唯一の方法論を選択することも可能である。それはつまりこういう作法を選択する。世界という記述する対象を記述不可能なものとして記述する作法である。要するに、世界全体は俯瞰することが不可能であるという定位に立つことで、世界の記述不可能性という世界記述に徹する作法のことである。

 世界の記述不可能性ということは、リオタールが本著で提示した「大きな物語の終焉」ということにも繋がる。この「大きな物語の終焉」というフレーズは、その後に続くポストモダンの思想においてシンボリックに使用され、もてはやされた。ポストモダンを批判するにも、同調するにも、この本は記念碑的必読書といってもよい。

 ただ今だにこのフレーズを使用して、「大きな物語の終焉という大きな物語」を語るのは、そろそろ終わりにしないと、哲学、社会科学の理論が単たる言葉遊びの道具となってしまう。

 また、ポストモダンの思想の読者も、その思想に通低する相対主義を持ち出して、何でもありだということはニヒリズムに繋がるといった、耳にたこができるくらいの紋きり型の批判を再度、熟考しなければならない。それには二つの選択肢がある。一つは相対主義を超克する、理論の存在知り、その新たな解釈。もう一つは、何でもありが、即ちニヒリズムへと繋がるといった、よく考えてみたら論理性に欠ける安易な断定に対してエポケーの態度を示し、既存の相対主義に対する態度を脱構築すること。私には、後者に興味が惹かれてならない。

関連テクスト:
「宗教を観察する」(複雑性から観察を考察してます)

「ホワイトブラザフッドへのレクイエム 〓オヤジ的観察」(機能システムの社会の記述法の説明してます)

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