『社会の社会』

ほんとすごいですね、ここ数年のルーマン本の出版。ルーマン没10年にして、ようやくルーマンの翻訳ができ、またルーマンを語ることができるようになったということなのかね?僕はルーマンの専門家になれないし、なりたくもないのだが、何かテクストを生産する場合、ルーマン先生のお言葉から啓発されるものがたくさんあり、それらをいいとこどりして何か書けたらなという気持ち。ルーマン先生と真剣に対峙するのはしんどいでしょ?僕はその前に生という問題にも対峙しており、ルーマン先生のように30年計画を立てる自信なんてもうとうなく、他にも読みたいものはたくさんあり、精神を疲弊させるルーマン先生とはあまりお付き合いしたくないのだが、あーあ、『社会の社会』の序文を読んじゃったよ。読みます、読みますよ!あの序文を読むと興奮してアドレナリンがでまくりにならずにはおれない自分が、ああ、悲しい。この数年、学問なんて棄てたはずじゃなかったのかな。ああ、逃げたい、でもちょっと覗いてみたい、怖、興味ありな感覚である。ルーマン読解はその行為によって差異を生み出すのりじゃなければ、それこそ、生の問題にルーマン読解が背中を押すようになり、その意味で怖いってこと。ルーマン先生も自己のテクストから差異を生み出すことを望んでいたと想うし、それって翻って考えてみると「誤読せよ!」といってもいいのじゃないかしら?こんなこと申したら日々、ルーマン先生を研究されている尊敬すべき方々に怒られるかしら。でも、僕はそんなのりが性にあっているのです。はい。おわり
 

ブログランキングに参加中。推薦クリックお頼み申す
人気blogランキング