社会的ステータスによって言説は強化されるって話の話し、或いは常に識者の物言いを疑ってかかれ

 あのさ、いつ頃に「慶應ボーイ」という言説が生じたのか、あまりよく判ってないのだけど、けれど以前は、慶應ボーイ」っていう言説は馬鹿にする、侮蔑の意味で用いられていたんだぜ。そうそうたるOBたちは社会的ステータスは高いのではないのか?なぜ、侮蔑的意味あいで使われるのよ?言説なんて、オリジナルを辿ることはできないしよ、不断に変容の過程にさらされているわけ、使われている限りは、たまたま、偶発的に現在では、ポジティブな意味あいで使用されているようだが、それもたまたま偶然の所作なわけ。
 なぜ、こんなに、たまたま、偶然なんだぜってよ、自信まんまんに云えるかってのは、このたまたまなんだという俺の観察自体も偶発的なものの一つに過ぎないからなわけよ。これって、芹沢氏や、まあ99%の日本の識者の社会の観察とは全く違うわけな。つまり、偶発性を観察の形式に用いることで、自己の観察も、たまたまな偶然的なものの一部ってことで、観察者は自己の観察の中に登場しているわけね。普遍的に限りなく近い理論というものは、理論が自らの理論に登場し、観察の対象にならないといけないわけよ。

 内藤、芹沢、本田、後藤、その他ほぼすべての識者全員、社会をまるで神のごとく、そとから眺めて、偉そうに語るが。偉そうに語る自分は外から俯瞰している社会の中の存在だからな。外から、この世の真理を見たり!みたいな観察には、決して社会−内−存在である自分は登場してこない。

 社会の内にいる存在が、外から無理に観察しているのだから、識者達のしたり顔で語る観察は決して一致することのない、社会は病んでいる、いや病んでない、少年たちは平気で人を殺す、いや、そんなことな!といった類の正に感想文のぶつけ合いで、感情的に共感するものは、ひっつき、相いれないもの同士は罵詈贈号の応酬を繰り返す。ほんと不毛且つ徒労なことをエンドレスにやっていて、そいつらだけで完結していればよいが、一般人が何か訳のわからない話をしているけど、きっと正しいんだって、大ばかたれの遠吠え的「感想文」を信じてしまう

 社会が病んでいるか、いないかは知らぬが、おめえらがこの世から消えてくれれば、今よりも生きやすい状況になることは確かだろうよ。

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